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プレイバックシアターにおける
永遠なるものについて |
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櫻井 靖史
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School of Playback Theatre 日本校
2003年 5月 |
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| ・要旨 |
| 時代が変わる。社会が変わる。さまざまな物が急速に変化する中で、プレイバックシアターが持つ恒久性について論じる。実生活における恒久性について探索しさらにそこからプレイバックシアターに共通するもの、プレイバックシアターに特有のものについて探索する。 さらに、このなかで変わらないもの、代えることの出来ないものこそ、真の意味でのプレイバックシアターのコアコンピタンスであり、これを中心に将来のプレイバックシアターの成長を考えていくことが出来るものと考える。 |
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| ・はじめに |
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すべてのものは過ぎ去り
そして消えていく その過ぎ去り消えていくものの 奥にある 永遠なる物のことを 静かに考えよう |
| 覚えようとしたことはないにもかかわらず、脳裏から去ることのないことばがある。これは、私の中学,高校の朝礼台前の石碑に刻まれた、初代校長のことばである。個人的には会ったことも、もちろん話をしたこともない。しかし、私の中のどこかに常にあって、日々人生の選択のなかに生きているようにもおもえる。 振り返ってみれば、寺に生まれたわけでもなく、仏教に深く帰依する家庭であるわけでもないにもかかわらず、小学生のころから意味もわからず般若心経をよみ、中学高校ではキリスト教を学び、父親の死後には正信偈をとなえるという変わったこどもであった。 大人になった今も、サラリーマンとして日本で唯一人、サイコドラマティストの資格を得、プレイバックシアターを続け、そしていまそのスクールの最終段階にいる。 ここで、この20年弱にわたる私のプレイバックシアター経験を、人間やそれが作り出すもの中にある永遠性で振り返ることは私にとって非常に有益であるにとどまらず、この観点からのプレイバックシアターに関して論じることは、プレイバックシアター界に寄与するものと考えあえてこれを選ぶことにした。それぞれに不勉強、至らない部分、言語での表現に困難をきたす事があるかもしれないが、ご容赦ねがいたい。 また、宗教に言及することもあるが、それはプレイバックの宗教性を必ずしも説くものではなく、社会性の中に存在する永遠性の形態としてとらえていただければと思う。 |
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| ・生活における永遠性 |
| ここでは、実社会、実生活に見られる永遠性について論じたい。それはプレイバックシアターが、今ここに社会の中で生きている個人のストーリーをテーマとするからである。個々のストーリーが尊重されるプレイバックシアターの文化の中には、実生活における人やその向こうにある共通のもの、あるいは永遠のものの存在が見て取れるからである。 |
| ・般若心経について 般若心経は、大乗仏教においてはその経典のエッセンスであり、276文字に凝縮されている。日本においても、浄土宗、真宗、日蓮宗以外の宗派では非常に重要な経典とされている。日本人の多くはその意味するところや内容を知らずともその一部である「色即是空」といった言葉を知っているほど有名な経典である。 『色即是空』がこれほどまでに言葉として有名であるにもかかわらずこれが意味するところはあまり知られているとは考えにくい。ここでは日本人の宗教性について論じるものでではないが、生活習慣の上での儀式、儀礼化した宗教上の言葉として捕らえられることが多いように見受けられる。色即是空とは形あるものは無に等しい、無なるものがさまざまな形を作っているという意味である。(公方)すなわち、形あるすべてのものは、実体として捕らえるべきものはなにもないということを言っている。 それでは、何が永遠なるものであるかというと、仏教には3つの根本原理があり、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」これらを本当の意味で理解することである。平家物語でも有名な「諸行無常」はあらゆるものが移り変わるということであり、「諸法無我」はあらゆるものには実体がないということ、そして「涅槃寂静」は心の安らぎが幸せであるということである。 |
| ・クリスチャニズム 本文頭の詩は、カトリックの司祭であった学校長が書いたものである。ここには永遠なる物が何かは語られていない。しかし、そこには「諸行無常」に通じることばが語られている。「永遠なる物とは何か?」の課題を提示している。 著者の勝手な解釈によれば、「永遠ならざるもの」である人が「永遠なる物とは何か?」を考えつづけるというメタ構造が「永遠なるもの」であると考える。これは司祭の立場からすれば、神という答えが期待されるであろうが、それ以外に前言のメタ構造としての「永遠なる物」がこのキリスト教の中にあるものと考える。このメタ構造としての「永遠なる物」を再度現実の言葉で置き換えると、それは人が迷い、苦しみ、そして時に喜び、楽しむ。このような心の動きは人が存在する限りつづくものであり、そのなかで人はよく生きたいと考えている。人の心が求めるものであること。山上の垂訓に代表されるようにキリストはひとびと心の求めに応じ、迷える羊を導くのがキリスト教の教えであり、ひとは求めるものであるという永遠性がそこに存在する。 |
| ・グローバリズム テクノロジーの進化により、地球は一昔前と比べきわめて小さくなった。卑近な例ではあるが、30年も前には「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組が好評を博していたが、いまやきわめて詳細な世界の情報が、インターネットを通じて必要な時に入手できる時代になった。 これは、デジタルデバイド呼ばれる新たな階級をもたらしかねないという社会現象もさることながら、実際には米国文化の地球規模への拡大であり、一方で地域文化が失われつつある。たとえば、ビジネスの世界では米国式会計方式が日本でも取り入れられるようになり、日本の会社と米国の会社が同じマーケットで競合する環境が整ってきている。阿吽で行われてきた慣習は、明文化された契約や裁判に置き換わりつつある。ここで米国の批判をするつもりはないが、一昨年の9.11事件が起こるまでは、米国本土は戦火に遭うことはなく、常に海外派兵による戦争をしてきた。この数十年のうちもっとも好戦的な国と言ってよいのではないかと思う。これらの戦争の結果が新たな憎しみや戦争を生んでいく。人間が生まれてこのかた繰り返してきた事実である。 ここにも人の心の永遠性が存在する。 |
| ・人の移動と都市への集中 産業革命により農村から都市への人口の移動が発生し、世界中で都市は人口過密によるさまざまな問題を抱えている。IT革命によりこの問題は緩和すると言われているが、今のところ大きな変化として見られるものはない。 |
| かつて老子は小国寡民をといた。老子の時代は戦国時代であり、下克上をはじめ、力の強いものが支配する明確な時代でもあった。同時に諸侯は有能な人材を重用し、あるいは政治色にあるいはコンサルタントとして国家の運営にかかわった。これを諸子百家というが、この時代にすでに、コミュニティの持つ力について論じられていることがわかる。一方でこのような論が発生せざるおえないのは、戦国時代という時代が平凡な農民があるとき戦士になり、王となっていく一方で、同じ農民であったものが、戦争によって田畑をあらされ、土地を奪われるという大きな社会的変化の有った時代であったと考えられる。 |
| 残念ながら、コミュニティの機能が世界の大都市では失われつつある。産業革命以降に発生しているこの要因は複数あり、1. 単純に人口の都市への移動が起こったことによるもの、2. 資本家と労働者という構造が固定的になっていること、3. 都市における生活コストのため、家族が労働可能なかぎり働きつづける必要があること。あるいは、4. 工業化、IT化した社会では就労にいたる教育機関が長くなりがちであり、それ以前の社会における労働を通してのコミュニティの構造は失われつつある。これらのようなさまざまな要因が考えられる。 |
| 未来学者のドラッカーによると、IT革命による今後の変化は、資本に代わって知価が社会の基本になる知識社会になるといわれている。すなわち、現在の資本家には知識労働者となり、工業化の中心であった生産手段は知識にかわる。すなわち、知識をもつものと持たないものという違いとして、社会の構造は今後も続いていくのである。ネクスト・カンパニーという言葉でドラッカーは論じているが、次世代の会社構造は資本主義的構造をもたず、経営者のみの会社になっていくと論じている。ドラッカーは都市について直接的に論じているところを見たことはないが、ITが夢のような未来を語るとしても、決して万人が平和で安全で物質的にも精神的にも満たされた世界がまっているわけではないと考えられるだろう。 |
| 過去から未来に向かって3つの時代背景についてみたがここでいえることは、戦国時代はおよそ500年、産業革命による工業化社会は200年あまりと、社会の変化後の安定期間はそれぞれに短くなってきていると言うことである。そして人の動きにともない、それまでの社会に有った社会構造が変化するということである。この繰り返しが人の歴史の中でフラクタルのように繰り返されていくであろう。 |
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・プレイバックシアターにおける永遠性 |
| これまで、実際の社会や生活における恒久性について言及してきた。このような社会状況の中で、プレイバックシアターが果たす役割をその恒久性から検討してみたい。 |
| ・コミュニティと仲間たち 実生活におけるグローバリズムの項にても論じたが、人の移動にしたがって、社会構造が変化し、新たな社会構造に従ったコミュニティが発生する。現代は、17世紀後半の産業革命に続く200年余りの資本主義社会が、いかなる未来が今後あるにせよ、ITという蒸気機関に相当するテクノロジーにより、次のステップに移行しようとしている。この社会構造の変化にともない、ひとの動きに変化が出始めている。それは、e-CommerceやSOHOに代表される直接的なものから、郵送の手紙が電子メイルに代わり、コミュニケーションのスピードが速くなることによる間接的な変化も存在する。社会構造が変化することに対しての人間の適応が必要になる。多くの人々はこの大きな流れの中で、それとは知らずに人生をすごすことでああろうが、同時にまた多くの人が、自分の属する帰属集団やコミュニティに変化を感じている。 コミュニティは、社会構造によらず何らかの形で人の存在するところに必ず存在する。プレイバックシアターにおけるコミュニティの力はコミュニティの原点である、コミュニティが持つ力を共有することで、強い凝集力を持つ。社会構造の変化のなかで、いつのまにかコミュニティから取り残されてしまったり、帰属していたコミュニティ自体がなくなってしまったり、あるいは新しいコミュニティに参加することが困難であったりという課題が必ずこれまで以上に発生する。プレイバックシアターはこの社会的変化をその内在する、コミュニティに関する本質的なエッセンスにより、コミュニティを再構成または再構築する事ができる。 |
| ・常識としてのリチュアル リチュアルは、コミュニティの属性としてとらえられる。それは、コミュニティによって異なるリチュアルを持つからである。最近、2回葬式に参加した。葬式というくらいなので、これらはリチュアル塊のようなものである。ひとつは、浄土真宗という宗派であり、もうひとつは日蓮宗の葬式であり、私にははじめての宗派の葬式であった。スクールの課題として般若心経の写経を行ったが、いずれもそれとは違うお経をとなえ、違う進行であった。 もっと、卑近な例をとれば、関西では「あほ」が「ばか」より軽い意味で取られるのに対して、関東では「ばか」が「あほ」より軽い意味で取られることが多い。ことほどさように、リチュアルはそのコミュニティに属すると考えるのが適当である。 プレイバックシアターのリチュアルにおいても、カンパニーによってそれぞれリチュアルが違うことが多い。かつてオーストラリアのカンパニーではストーリーを演じる前に、アクターが集まり、「気をあわせる」ようなリチュアルをしていたことがある。最近このリチュアルを行うカンパニーを見ることは少なくなったが、適切なトレーニングを受けていないカンパニーでは、舞台の上で打ち合わせをはじめてしまう場合もある。 本来この場面で重要なことは、テラーのストーリーのエッセンスを再現することであり、ストーリーの詳細をテレビドラマの評論家よろしく詰めることではない。それは、そのストーリーのエッセンスが多くのひとに共有され、共通したものであればあるほど、テラーにとってだけではなく、そこに参加する人々をウォームアップしていくからである。もっとも重要なリチュアルはそこに集まった人々が単に集まった人々から、一時的にせよコミュニティと呼んで差し支えないレベルのグループに高めていく手段であり、テラーの話をテラーにかえすとともに、そのグループで共有されることである。 したがって、プレイバックシアターのリチュアルは今後変わることがあるかもしれないが、そのメタリチュアルとでも呼ぶべきリチュアルの部分はプレイバックシアターとともにある。 |
| ・シンボリズム シンボルとは直接的に知覚できないものを、それを連想させる具体的なものや感覚的なもので間接的に表現することである。すなわち、プレイバックシアターとはシンボルそのものである。 演劇では、時間、空間がシンボリックに扱われることは良くあることである。それに加えプレイバックシアターでは、登場人物自身や存在する風景をはじめとする具体的なものから、その場の雰囲気から感情、感覚といったものまでシンボリックに扱われることがある。筆者は芸術論に詳しくないが、一般的に芸術は写実的なものと抽象的でシンボリックなものに別れる。絵画で言えば写実的な絵画に人気が高いが、歴史的には写真の出現が絵画の写実主義を衰退させた面も存在する。すなわち、絵画における芸術性はそこで表現されているものの本質であり、写真のような情景ではないということである。 プレイバックシアターは、この分類から言えば、むしろ抽象画の世界である。そこで表現されるものはテラーのストーリーそのものではあるが、あるときはデフォルメされ、よりそのストーリーの本質=エッセンスへ近づこうとする。プレイバックシアターにおけるシンボリズムは本質の表現のためのシンボリズムであり、これはプレイバックシアターのフィロソフィーのとしてのシンボリズムである。 |
| ・人の集団としてのグループ 人が集まればそこにグループができる。人が集まればそこにコミュニケーションが発生する。これはごく自然なことである。すでに言及したが、その自然なことが起こらない場合が存在する。プレイバックシアターは、原始時代の火を囲んだ時代にもどれというものではなく、現代において、即興劇がもたらすコミュニケーションの醸成とコミュニティの育成が目的である。ここでいうコミュニケーションは単なる言葉の交換やメッセージの交換という意味ではなく、人として存在性の交換という理解をしてほしい。 テラーの存在も忘れてはならない。グループの中で、テラーはなぜステージに上がり、自分の話をするのか。特にシアター形式で実施される場合には、観客はグループの中で個々には区別されないグループの人々として存在する。一方テラーはステージに上がるというリスクを犯し、かつ自分の話をするというリスクを犯す。それが実際にリスクである場合もあるが、プレイバックシアターではそこに共同体感覚を生み出すことで、テラーがリスクを負わないようにする。ワークショップであろうと、シアター形式であろうといきなりストーリーをしたりはしない。それはグループのウオームアップが必要であり、そのとき、その場でのみのものかも知れないにせよ、ひとつの時間をひとつのテーマで過ごすためのコミュニティを作成するのである。コンダクタはコミュニティの育成者である。共同体感覚の醸成なくして、プレイバックシアターは存在し得ない。 |
| ・即興性 すべての人の行動はある意味で即興である。プレイバックシアターにおける即興はテラーのストーリーに対する即興的再現である。日常生活での即興的反射は、パブロフの犬のように何らかの刺激に対する反応であり、日常意識して行動されることは少ない。一方プレイバックシアターの即興は、テラーのストーリーを再現するものである。これゆえアクターはテラーのストーリーに対してニュートラルいるようにトレーニングされなければならない。プレイバックシアターのストーリープレイはテラーのものであり、アクターの歴史や経験、条件反射の集積ではないからである。 一方で、すべてのストーリーには、人の生活や人生といった共通のテーマが底流に流れている。人の死に際して喜ぶ人はまれであるし、楽しい時に泣く人も少ない。人が生きていく上で、感じる心の動きには、経験に比べて共通するものがはるかに多い。 プレイバックシアターにおける即興性は人に広がり、過去や未来に広がる即興性であり、時空を越えた即興性として高度に洗練されており、プレバックシアターのエッセンスといえる。 |
| ・演じられるドラマについて 実生活においては、5W1H−いつ、どこで、だれが、なぜ、なにを、どのようにした−が問われることがおおく、多くの演劇もこの5W1Hを明確にすることによってストーリー設定を明確にしている。昔話のひとつを思い出してみればよい。 プレイバックシアターでもこれを明確にするようなトレーニングをすることがある。コンダクターのトレーニングとして、この5W1Hに相当するものをコンダクターが理解しておくことは、テラーの話を観客の前でアーティキュレートし理解してもらうためには、かなり重要なことであるが、一方で、フルイドスカルプチャーやペアーズの際にこれを細かに聞き取りするかというとそういうことは逆にまれであり、もっぱらコンダクターとテラーの前後のコンテキストとインスピレーションからその気持ちのエッセンスを手に入れている。 これは同時にストーリーを演じる際にも当てはめることができ、それが観客のいる前で適切かどうかは別として、ストーリーを演じるうえで、エッセンスを明確な5W1Hを説明しないまま演じることも出来る。このように演じられるものは多くの場合、時空を超えた形でのそのストーリーの本質がアクター間で共有されたときに可能となる。時間と空間はストーリーの本質におけるオプショナルな属性と考えることができる。きわめてシンボリックな表現がされるとき、そこにはある瞬間の感情が表現されるとともに、コミュニティの構成メンバーの多くも同時にそして過去に、あるいは未来にその感情の表現を共有することになる。 |
| ・ストーリーのエッセンス プレイバックシアターのトレーニングではストーリーのエッセンスが何かというトレーニングを繰り返し行う。それは、プレイバックが即興劇だとしてもそれは単に、テラーが語ったことの単純な再現ではないからである。もし、それが単純な再現を目指すものであるとしたら,シンボリックな表現を避け、出来るだけ具体的にインタビューし、出来るだけ具体的に再現するようにするであろう。 プレイバックシアターのトレーニングでは必ずストーリーの流れをレビューし、根底に流れる共通のテーマを見つけようとするトレーニングを行う。そこで見つけたと思うものは正しいか正しくないかは多くの場合わからないが、これらのトレーニングを通じてプレイバックシアターのメンバーはストーリーのエッセンスを理解するようになっていく。 これは、語られるストーリーとその裏にある語られないストーリー、テラーのサープラスリアリティの連鎖を理解するためのトレーニングとなる。 ストーリーのエッセンスはテラーのストーリーのサープラス・リアリティにおける情緒や感情にある。これは人類が生まれて以来必ず持つものであり、それを焚き火のそばで話をするか、喫茶店で仲間内との雑談の中で行われるか、はたまたプレイバックシアターというよりそのサープラスリアリティをクローズアップするなかで語られるかの違いである。 そして人が語るストーリーにおける時空をこえたサープラスリアリティとそこにおけるテラーの情緒、感情こそが世代を超え、時間や空間を越えた共有を得ることが出来るものなのだと考える。ストーリーのエッセンスの永遠性こそがプレイバックシアターの真髄であると考える。 |
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| ・おわりに |
| クリエイティブワークになぜ写経を選んだか、この論文を書いている短い間に2回も葬式に参加することになったか、このコースに前後して2度も仕事を失うことになったか、すべては偶然の産物であり、あるいはインスピレーションのなすところであった。にもかかわらずすべてのことがこの論文を書くことへ向かっていたように思える。この論の結論はあまりにもシンプルであり、プレイバックシアターを行ううえで最初から言われつづけているストーリーのエッセンスにあるというあまりにもあたりまえのディスカッションかもしれない。しかし、あらためて何がプレイバックシアターのコアコンピタンスなのかをこのような切り口もあるのかと見てもらえれば幸いである。 この論文を書き始めたときに、私の古い友人がなくなった。もう10年以上も会うこともなかった友人ではあったが、その間もお互いに友情を感じあう関係であったと信じる。彼の死によって、永遠なるものについてさらに考えさせられることになった。前田美智世君とご主人の死に会い大変な思いをされているときに、数えるほどしかお会いしたことがないにもかかわらず直接連絡を頂いた奥様の雅子さんに感謝します。一番最初に参加したプレイバックシアターのワークショップの費用を会社の研修費用から捻出してくれた当時の会社の上司の小野和夫さんに感謝します。一緒にプレイバックシアターをやってきた仲間たち、そして特に米国のスクールへともに参加し、一緒にグループを立ち上げようと誘ってくれた宗像佳代さんに感謝します。彼女がいなければ私はプレイバックシアターを続けていなかったでしょう。最後に、最愛の家族に。平日は会社、週末はプレイバックシアターやサイコドラマと活動することを許してくれた寛大な家族に感謝します。 |
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| 参考文献 ・Fox, Jonathan 1994, Acts of Service ・公方俊良 1985, 般若心経90の知恵 ・ P.F. ドラッカー 2002, ネクスト・ソサエティ ・マーヴィン・ミンスキー 1985, 心の社会 ・ブレンダ・ローレル 1992, 劇場としてのコンピュータ |
| English Summary Eternity in Playback Theatre |
| History is made. Social structure is changed. Many things are rapidly
changing. The author explores the eternity of Playback Theatre. Discusses
the eternity in real life and explores the similarity and the particularity. Among these eternity in Playback Theatre, what canユt be changed and what canユt be replaced are the core competence of Playback Theatre and we, folks in Playback Theatre might think about the growth of future Playback Theatre with the core competence. |