スクール・オブ・プレイバックシアター日本校
リーダーシップ コース 研究課題1. 卒業論文
『アクター体験によって可能になる自己変容』
October 16, 2006
宮澤 正江(Masae Miyasawa)
――― 目次 ―――
はじめに
1.演じるとは
演劇
即興劇
身体表現
2.人が変わるということ
気分が変わること
生き方が変わること
3.プレイバックシアターのアクター体験で何が変わるか
おわりに
1.はじめに
目的
プレイバックシアターでのアクター体験が人にどのように作用し、人格的にどのような影響を及ぼすのかを明らかにし、プレイバックシアターを使った社会活動に更に貢献していきたい。
要旨
プレイバックシアターの中で自分自身がアクターを体験し、アクター体験する前と後では身体的心理的両面で変化があった。又職場において、対人関係の中で何らかの傷つき体験をし、対人恐怖、自己防衛の強い青年達にプレイバックシアターを試みたところ、テラー体験よりアクター体験後の方が表情や態度、活動に変化が現れた。『役を演じる』とは、人間にとってどういうことなのか、どのような意味があるのか、又、それは何らかの自己変容を可能にするのか、可能にするとすればそれは何かという点についていくつかの文献を基に論じてみたい。
2.演じるとは
「演じる」とは、と言ってもその分野には様々な形態があり歴史があり、世界中を視野に入れたとき、恐らく気が遠くなるほどの数が存在すると思われる。
舞台演劇をみても日本だけでも歌舞伎、能、狂言、浄瑠璃、文楽、現代演劇、コント、前衛演劇等枚挙に遑がない。映画やテレビというメディアを通して見る劇もある。それらに共通して「演じる」ということを論じることは無理があり、乱暴なことと思われる。ここで、少しでも明らかにしたいことは、最終的にはプレイバックシアターにおいての「演じる」こと=「アクター体験」である。そこで、この論文では舞台演劇のリアリズム演劇にフォーカスし、舞台俳優にとって演じるとはどういうことなのか考えていきたい。そして、それと即興演劇を比較し、アクター体験でどのような自己変容が可能になるのかを考察する。
仮説
プレイバックシアターでもっとも大切にしている理念に自発性(spontaneous ness)があり、自発的に演じることでauthenticな自己に触れる。このことが自己変容に大きく作用すると考える。
そして、自発性が発揮されると人間はどのように変化していくのか。自己の中の埋蔵されていた自分に気づき、創造性が開発されアイディアが湧き、活力にあふれて、自己表現への意欲が満ちてくるだろう。
もう一点、アクター体験が自己変容に影響を与える要素に、プレイバックシアターのアクターは、一般の演劇に比べその原動力において、より利他的である点をあげたい。自分がスポットライトを浴びたいという自己満足や単なる自己表現ではなく、テラーの語ったストーリーをそのまま受容し、テラーへ演じ再現するという形でお返しする。この利他性はアメリカの心理学者A.H.マスローが唱えた欲求階層説(※)の最高層階にある、他者への愛や社会貢献へ向かうものである。このことは、人間として成長し成熟して行くことに他ならないわけで、人それぞれに変容を余儀なくされると考えられる。
※欲求階層説・・・A.H.マスロー(アメリカ、1908〜1970)が唱えた「動機づけの理論」にあ
る。人間の欲求には@生理的欲求、A安全と安心の欲求、B所属と愛の欲求、C承認の
欲求、D自己実現の欲求の5段階層があるという説。初めの4つの欲求は人間の欠乏に
根ざした動機であり、満たされる必要があるけれども、人間は欠乏動機によってのみ生
きるのではなく、それがある程度満たされることにより、真の成長動機である自己実現
の欲求が表れるという。
演劇
では、あらためてそこでの演じるとは、演劇とはいったいどのような行為を指すのであろう。演出
家鈴木忠志氏の『演劇とは何か』⑴という著書を基に考えてみたい。
まずこの著書の中で鈴木氏は、演劇の定義としてポーランドの演出家グロトフスキーの『実験演劇
論』の一文を引用している。「・・・「それがなければ」演劇が存在できないものはなにか、ということが問われ
なければならない。では、俳優なしに演劇は存在できるでしょうか?演劇は観客なしに存在できるか?こうして俳優
と観客とがのこります。したがってわれわれは、演劇を「観客と俳優のあいだで起こるもの」と定義することができ
ます。・・・」
又、イギリス出身の演出家ピーター・ブルックの『なにもない空間』の中から次の文を引用している。「・・・どこでもいい、なにもない空間―――それを指して、私は裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれをみつめる―――演劇行為が成り立つためには、これだけでたりるはずだ。・・・」
そして鈴木氏は、「言葉を重ねれば重ねるほど演劇そのものは漠然としたものになって、遠ざかってしまう。
なぜなら演劇行為とは、人生とおなじように、説明されるべきものより生きられるものだからです。説明されることを拒みはしないが、言葉そのものによってはけっしてその真相をつたえることができないもの、どこからどこまでがそれなのかはっきりと区切ることができず、かつけっして一箇所にとどまらないといった生き物です。ですから、もし演劇を説明するなら、どのような時代、どのような場所にあっても、ここだけは変わらないと考えられる基本的な構造を提示して見せるのがもっとも懸命な態度だということになるでしょう。」と述べ、「演劇とは観客と俳優との間で起こるもの、というより観客と俳優とが同時に共存する場で起こるもの=作品だ。俳優という存在は演劇行為の中でいちばん重要な要素として存在していることは疑えません。」と結んでいる。
では、俳優とは何なのか、何をする人なのか、そしてひとりの人間がどのようにして俳優になるのだろうか。そのことについては、鈴木氏はロシアの演出家スタニスラフスキーの書いた『俳優修行』を引用し、スタニスラフスキー・システムに触れて次のように述べている。「・・・(絶望に打ちひしがれている役を俳優が涙を流して演じたことについて)これはあくまでも舞台の上で涙を流しているということだと思うのです。実生活上の感情を生きているのではなくて、いまここで、舞台の上で涙を流すという感情を生きているのです。・・・俳優が実際に舞台に立ち、動く場合には、実生活における感情や心理を体験したり生きているのではなくて、あくまでも舞台に立つそのときの舞台感情を生きているか、あるいは舞台的な動きを意識して生きているのだと言う意外にないのです。・・・俳優は、演技をすることによって実生活へと回帰していくのではなく、自分が実際に生きている生活を参考にしたり引用して、まったく別な実生活的イリュージョンをこしらえ、そのイリュージョンのなかを生きるというのが正確な言い方ではないかと思うのです。そして、このイリュージョンを生きるということが俳優の演技であり、舞台感情でしょう。・・・スタニスラフスキー・システムは、その根本にある考え方は、人間はいろいろな抑圧をうけながら日常生活を生きている、つまり、生きていくことは惰性的で反復的な日常生活に適応するために、自分の感情や欲求の可変性をできるだけおさえることだし、そのためにわれわれの内面にもっと豊かな感情があることを忘れている、あるいは潜在的になっている、というものです。それをできるだけ解き放して、ひとりの人間のなかにひそむ可能性としてある魅力を引き出していきたい、発見としての自分に出会わせたい、人間が実生活のなかで果たすことができないでいる感覚を舞台という装置のなかで花開かせたい、ということで考え出された。・・・」
ここまで見てくると、俳優とは演劇行為の中で最も重要な存在であり、その俳優は舞台の上で実生活的イリュージョンを生き、日常生活で抑圧されている豊かな感情を解放し実生活のなかで果たすことができないでいる感覚を体感し、自分を発見する可能性を行為する人間、と言って良いだろう。
そして、鈴木氏は「演技とは人間を表現するものではなく、人間が生み出しつづけてきた言葉を遊ぶものです。」とも言っている。俳優は舞台の上で言葉を遊ぶ、という行為をする人間ということである。又、興味深いのは能や歌舞伎の演技との違いとして、能や歌舞伎は舞台感情ということでは同じだが、「身体感覚」それ自体の快感を演技を通して追求した、と述べている。この“身体感覚自体の快感”はプレイバックシアターにおいて考えてみたい要素でもある。
さらに演劇と演技について鈴木氏が述べている文章を抜粋して列挙してみよう。
「どれほど優れた戯曲であろうと詩であろうと、また偶然その場に立ってしゃべりだされた言葉であろうと、一人の人間が音声を発し、何ものかを語り、見るものがその人間のエネルギーや行為に価値を見つけたときに演劇が存在してくる。それが『語り』=『騙り』という演劇的な行為です。騙るということは、言葉を解説することではなく、言葉を喋ること自体がドラマになるということであり、言葉をいままさに喋る人間の内部に何事かが起こり、その起こっていることを見せるのが演技です。騙りは、言葉を喋る人間の身体のなかの意識や、それを見ている観客との関係を変質し、そこに何か非日常的な価値を見つけ出すような行為やエネルギー、あるいは励ましを受けるような言葉や空間をわれわれに感得させる俳優の存在意義そのものだといえます。そして、その騙りが成立したときにわれわれが感じることは、日常とは少し異なった感覚体験をしたという身体的かつ精神的な充足感はもちろんのこと、そのことを生きさせてくれた俳優が人間として魅力的であったと言うことです。ですから、俳優というのは、言葉のために魅力的であるのではなくて、言葉を語ることによって魅力を発揮できる人間のことです。あるいは魅力を発揮することによって、観客の気分を非日常的なものに誘うことができる人間のことです。これが人を騙すという「騙り」=「語り」です。そうした俳優の語りによって、初めはその場をよそよそしく分けている関係、見る者と見られる者という二つの項をもっている関係、それが一対のものになるような濃密な空間が成立する。このような俳優と観客との関係が生まれたときに、演劇が成立するのです。」
「演劇で何かを表現しようとする場合、ある一人の人間の姿・形をかりて、人間というものの意識状態なり精神状
態を見えるものにするわけです。それがリアリズムといわれる演劇なのです。」
「見えないものを、見える形を持っている演劇の様式を利用して可触的にしているのです。いや、そういう錯覚を観客に与えようとしているのです。」
「その場で初めて感じられたものが何であるかということ以外に、演劇の「演劇性」たるゆえんはありません。」
「俳優が違えば印象もまったく違ってくる。俳優が違うと印象が違うということは、演劇行為がライブなもの、生き物であり、一回性の関係によって成立しているものだということを意味します。演劇は一回性として生起するその多用な関係や、生身の肉体がもっている可変的な発見を楽しむものなのです。」
ここまででわかったことは、俳優の演技を通して人間の意識状態あるいは精神状態を見える形にし、
それを見た観客が何か非日常的な価値を発見し得るものが演劇である。演じるとき既に俳優の内部に何かが起こり、その起こっていることを形で見せる、そのことによって観客との間に非日常的な価値を発見するのである。演じるときに何かが起こることが、自己変容と密接に関係していると考える。
又、『演技者へ!』⑵という書物のなかで著者であるマイケル・チェーホフ氏は「創造的芸術家の真の使命は、人生の表面をコピーすることではなく、人生のひだや深みを解きあかすことであり、生活のあらゆる出来事の裏にあるものを示すこと、観客の眼を生活の表面や、ありきたりの意味を超えたところに向けることにある。言い換えれば、芸術家、真の意味での俳優とは、一般の人々が見過ごしてしまうような物事をその目でとらえ、それを体験し得る能力を備えた存在ではないだろうか。」と述べている。この真の意味での俳優になるために惜しまぬ努力を続けることは、結果的に自己変容に結びつく。この書物のなかで著者は「我々俳優は創造性を舞台の上で表現する楽器として、この身体を使わなければならないために、心理と身体の完全な調和を目指して、たゆまない努力を続けなければならない。」として、そのための様々なエクササイズを提唱している。
ここで、素朴な疑問として「なぜ俳優はきれいで、若さを保っていられるのか」ということを考えてみたい。マイケル・チェーホフ氏は著書のなかで、「心理と身体の密接な関係を保ちながら一緒に育てて行く必要がある。俳優の身体は、心理のすべての色合いを吸収し、身体全体に満ち溢れるようにすることである。」⑵と述べているが、俳優は日夜ありとあらゆる方法で訓練し、努力を続けている。それであるから、俳優が実年齢より若く見えるのは当然のことなのかもしれない。年をとればとっただけ、俳優の全体に深みが出て、さらに魅力的になる。
単純に疑問に対するこたえは、その訓練や努力の結果であることは認めるが、それだけではない。「演じる」という行為は、脳の様々な部位を使うことで神経伝達物質やホルモンの分泌を促進し、心身を活性化するのではないかと考える。プレイバックシアターでは、特に記憶と感情に深く関わる海馬や視床、視床下部等の神経ネットワークの働きが活発になる。演じることと脳の働きの関係は、非常に興味深いテーマだが次回に譲りたい。
即興劇
プレイバックシアターは舞台演劇でも即興劇である。そして、プレイバックシアターの表現方法にはその他の身体表
現が様々に確立されヴァリエーションはあるが、ここでは主に即興劇・ストーリーについて考えてみ
たい。
その前に、まず即興劇とそうでない舞台演劇とは、どこがどう違うのだろうか。確認してみたい。
即興劇では、脚本も演出家も監督もいない。正に「いま・ここ」で内部から湧き起こってくる表現で
ある。そこでは、より自発的により創造的になる。思考より感覚の領域を使う。左脳より右脳を使う。
春山茂雄著『脳内革命』⑶によると、「右脳は潜在脳とも言い、ここには先祖たちの経験した知恵や情報が
刻まれている。右脳はα波状態のとき活躍する。脳波がα波状態になってβ―エンドルフィンが分泌されると、右脳
にストックされた記憶や情報は、自在に引っ張り出せるので、ふだんβ波のときには考えられないような才能が発揮
できる。」とある。「いま・ここ」を意識し自発的、創造的になったとき脳波はα波になり、前述のよ
うな状態になるのではないかと考える。ただここで、『脳の健康科学』⑷の中で岩田誠氏は「さまざま
な能力において、右半球の方が優れている部分が見出されているが、どれをとってみても、言語能力ほどの劇的な側
差を示すものではない。したがって、左半球は言語、右半球は視覚認知、というように、大脳半球機能を単純に二極
化して考えるのは誤りであろうと思われる。」と述べていることから、「右脳を使うことによって」という
ことより脳波がα波の状態のときとして考えたい。
さらに即興ということについて、石村真紀、高島恭子著『即興による音楽療法の実際』⑸を参考に
考えてみたい。この著書の中で即興演奏を支えるものとして@聴くこと――耳を頼りに音楽(テラーの
語るストーリーあるいは他のアクターの演技)を感じ取る、「感じ取っていくセンサーを研ぎ澄ましておく」
A観ること――(テラーあるいは他のアクターの演技を)目で見て音楽的(演技的)に感じ取る、「直観力
をもってどの動きを一番の手がかりとするかを見分けていく」B直観・直感、「頭で考えることよりも何かの感じを
とらえるのだが、直観の方が直感よりもより鋭い感性の次元を表す」「直観で捉えるからこそ場面がいきいきと流れ
出てくる。心に浮かんでくる感じが本質につながるものであると確信できるかどうかも、直感的に判断することであ
り、後はその感覚に確信をもって実行するかどうか」C柔軟性、「変更によっておこる計算外のことに対して流動的
にやり取りすることで可能性を掘り起こす」D自らを開く、「自らを開いて精神的(spiritual)な繕わない自然体の
自分を見せるときその本心と共鳴する」Eゆとり、「自分を落ち着けて相手を感じる」「即興が生まれる下地なるもの
を回想してみると、状況をよく見る瞬間がある。それは、瞬間の出来事ではあるが、心の中にそのことを可能にする
下地がある。それ即ちゆとりではなかろうか(山松質文氏)」F音楽(演技)の引き出し、「引き出しをどれだけ持
つかということと、その引き出しをいかに使うかがとても重要なポイントである。しかし、ここで間違ってはならな
いことは、引き出しがたくさんあるからといって、相手に伝わりやすくなるとは限らない」の7つをあげている。
ここでは【音楽】という言葉の部分を( )の言葉と置き換えてプレイバックシアターの即興劇に当てはめて
考えてみた。
この7つについてひとつひとつ見ていくと、どれにおいても物事の本質、あるいはストーリーの本
質、テラーの本音(ハート オブ ストーリー)、アクターの本質に触れるのである。この本質に瞬時にふれてこそ即興劇が成立すると考える。
そして、「即興演奏に集中しているときは、自分のなかから何かを生み出そうとしているときである」「創造性と
は固有のものであって、創造的になればなるほど、その人らしさを発揮できる」⑸とも言っているが、自発的に創造的になるとき、その人自身の本質に触れると言うことであろう。本質に触れることで、新しい自分に気づき変わっていくのだと考える。
ロール・プレイングの実践者である川幡政道氏は「自発性とは、外部からの影響から自由であると同時に、自己の内部からの拘束からも自由であることである。自発的な人間は、新しい事態に対して、また古い事態に対しても適切に行為することができる。だが、記憶や知能に依拠した人間の文化は、自発性を阻害し、その発達を妨害した。人間の心理的な病、社会的な病は、自発性が十分に発達していないことから生じる。心理劇、ロール・プレイングはこの自発性を発見し訓練するものにほかならない。モレノによれば健康的な人間は、自発性と創造性を備えている。」⑹と述べている。
インプロ(即興劇)は本の少し体験しただけであり、資料についてもまだ調べていないので言及は
できないが、プレイバックシアターでのアクターと大きく違う点は、プレイバックシアターではテラーへのギフトとして演じ参加者全体が共感することを目的とすること、インプロはギフトという意味あるいは目的はそれほどないと考える。演じるとき、意識の矢印がこの『テラーへ』という自分から外へ向いていることも自発性がより発揮できる要因ではないかと考える。単に自己表現であったり、芸術的評価を目指したり、いわば意識の矢印が『自分が』という自分の内へ向くときは価値や評価を意識して、自発性が萎縮してしまうのではないか。これについては、資料を調べ更に考えていきたい。
集団精神療法として考え出された即興劇には、サイコドラマ、ソシオドラマ、ミソドラマなどがあ
る。サイコドラマは即興的手法は使うが、監督(ディレクター)がリードし一人の主役を置き個人の問題の発見・整理・解決を図ることを目的とするので、そこでは自発性・創造性・芸術性はプレイバックシアターでのそれらに比べるとほとんど発揮されないだろう。ソシオドラマは社会問題や集団の課題に焦点が当てられ、参加者は何らかの社会的役割を取ることによって、洞察を得る事ができる。社会教育として用いられる。ミソドラマはスイスで創始され、神話レベルの元型的意味を持った物語を用い、ドラマ的手法で参加者が互いに自己表現し、新しいドラマを作っていく。そこに集まった集団の抱える課題に合った、普遍的意味を持った神話レベルの物語を選び、即興劇で演じる集団療法、とある。即興劇であるという点でやはり、自発性や創造性は発揮されるであろう。
自発性と創造性について考えてきたが、ここでプレイバックシアターの即興劇に求められる能力の分野につ
いて考えてみたい。プレイバックシアターのストーリーでは、アクターはテラーの話しを聞き、自分の役に集中し尚且つ、ハート オブ ストーリーをつかみ、劇の構成を考え、他のアクターの動きを読み、場面を読み、ハート オブ ストーリーをより効果的に表出させるその場に必要な役を選び取り、音楽を聴き、他のアクターにオファーを出し、他のアクターからのオファーを拾い、スペースと全体のバランスを読み取り感じ取りながら、テラーの観たい最終場面に行きつく。これらのことを瞬時に直観的に、時に同時に時に流れを見て実現していく。その直感は、計算的に論理思考的に試行錯誤され実験されたものの蓄積によって、さらにより研ぎ澄まされ、必要且つ十分なエッセンスへと導かれる。
さて、これら上記のことを可能にするにはどのような能力が必要であり、又アクターを体験してい
くことでそれらの能力が開発されるであろうか。視覚、聴覚、触覚、判断力、理解力、集中力、直感、洞察力、直観力、構成力、計画性、バランス感覚、積極性、責任感、協調性、臨機応変さ、瞬発力、信頼性、順応性、自己主張、執着しない潔さ、これらをほぼ同時に直感的に発揮する健康的な自己統制力、であろう。これらの能力の中には、方向が逆向きの相反する能力同士が要求されていることもある。例えば協調性と自己主張、直感と洞察力、直観力と構成力・計画性、あるいは自己主張と潔さなどである。即興劇という、打ち合わせのないその場で瞬時にアクター、ミュージッシャンで作り出していく劇では、上記のような能力が必然的に要求される。アクターを体験していくことでこれらの能力は自ずと開発されていくのであろう。そして、それらの能力を統合していける健康的な自己統制力が最終的には必要なのではないかと考える。更に、この健康的な自己統制力は自発性と創造性から育まれて行くのではないだろうか。
身体表現
身体表現というと又、さまざまな方法があるだろう。ここでは、方法よりも『体を動かす』こと、
そのことが人間に及ぼす影響という点を考えてみたい。
竹内敏晴氏の『からだ・演劇・教育』⑺のなかで、林竹二氏の〈人間について〉の一文を引用して
いる。演劇の授業をしていくなかで「人が、人のからだが変わってゆくというのは、こういうことだ。奇跡み
たいなことだが、しかし、人と人とがほんとうに触れ合う、出会うということがあったあとでは、必ず、目に立たぬ
ほどであっても、確実に動いている。」そして、竹内氏は「〈からだ〉をそだてるとは、全人格が成長してゆくこ
とにほかならないのだ、ということを私はみた。」「最初にからだをほぐすことから始める。だんだんからだがやわら
かくあたたかくなって感覚が動きはじめる。自由さが生まれてくる。心を含めて、からだ全体がいきいきしてくる。
声も出てくる。ひとつひとつの課題が深く集中して、しかも即興的に発展させられるようになる。」と述べている。からだがあたたまって緊張や疲労からときほぐされてくると、自発的に動いたり創ったり表現した
りしたくなるしくみが人間には備わっているということだろう。体を動かすことで人間の内部では何
かが起こっている、このことは間違いないだろう。
又、石坂浩二氏は世阿弥の言葉を引用して「『形整えばおのずと心整いまする、心整えばおのずと形整い
まする』というようなことをいっていますが、それは結局、形がきちんと決まれば、たとえば悲しみという感情は表
現できる。」⑻と述べ、鈴木忠志氏は「能や歌舞伎は身体が精神をひっぱるということを理解しています。」⑴と
述べている。猫背になってうつむいていれば沈んで落ち込んだ気持ちになり、胸を張って大きく伸び
をすれば気持ちも伸びやかになる。身体の形や表情によって感情が引き出されるということであろう。
このことを裏付ける理論にウィリヘルム・ライヒという心理学者の説を引用する。「ライヒによれば
蓄積された感情体験は筋肉と結びつき、彼が『性格の鎧』と呼んだ防衛機能をつくりあげる。彼の思想では身体と心
は一体となって機能する。例えば、悲しい体験をして、悲しみを抱えている人は、身体を見れば「なんとなく悲しそ
うな顔」をしていたり、身をちょっと引いた「身構えた姿勢」で生きている。また、「ビクビクした身のこなし」を
していることも多い。いつも人に怒りを感じた人生を送ってきた人は「いばった姿勢」や「目つきがきつく」なるこ
とが多い。このように、人の経験は、脳で記憶されるのではなく、脳の神経と結びついた筋肉(姿勢)によって記憶
されるのだ。⑼
別の分野だが、横浜労災病院心療内科部長 山本晴義先生の「心身症とストレス関連疾病」につい
ての講義のなかで先生は「運動をしている人のほうがしていない人より、ストレスコーピングがたか
い」と述べている。体を動かすことは精神作用に大きく影響している。
ここで、プレイバックシアターの方法で身体表現の代表ともいえる『動く彫刻』について見てみたい。テラ
ーの語った感情にフォーカスしてサウンド・アンド・ムーヴメントで表現する。『体を動かす(声も
含めて)』ことと『感情にフォーカスする』ことは、やはりその人の本質に触れるであろう。心理療
法の技法にフォーカシングがあるが、そこでは体の感じに注意を向けフェルト・センスに触れ気づき
や癒しや変化を得る。このフェルト・センスとは、まだ言葉にされていない何かもっと多くのものを
含んでいる、あいまいで、漠然とした、微妙で説明しにくい感じられた意味・感覚である。『動く彫
刻』では、感情を表現することでこのフェルト・センスに触れているのではないか。それを体の動き
や声で表現することで、テラーの感情を表現しているのだがアクター自身のフェルト・センスを呼び
覚まし、アクター自身の本質に触れ、内部で何らかの変化が生じると考える。
小野京子氏は『表現アートセラピー入門』⑽の中で表現アートセラピーの哲学として次のように述
べている。「今まで否定したり、抑えこんでいた感情が表現アートのプロセスのなかで浮上することがよく起こりま
す。その感情を理解し、安全なアートの形で表現し、今まで自分のなかに溜め込んでいたものを解放し、それを人と
分かち合い、受容されることで、今まで否定していたものを自分のなかに統合するという回復のプロセスを歩みます。
からだの実感をもとに感情と触れることで、知的な解釈へ即時に還元することなく、からだの実感にとどまり、さら
にその感情を作品やからだの動きを通して表現することができます。そしてそれを表現するプロセスで、その感情は
変容し、新たな意味付けが行われます。このように、からだの次元は、全人的な回復を目指すうえで非常に大きな意
味をもっています。からだの実感は、「偽りの自己」でない「真の自己」を回復するうえで、欠くことのできない要
素です。」さまざまな表現アートの世界でも、このようにからだを通して感情に触れ、その感情を芸術
的な媒体を通して作品として表現することが、全人的変容に有効な方法であることが実証されている。小野氏はさらにこのからだを通して感情に触れることは、自己の中核(真の自己)と繋がり、自己
の本質的な部分に触れ、スピリチュアルな体験に至るひとつの入り口であると述べている。
2.人が変わるということ
人が変わるとはどういうことか、書家で詩人の相田みつを氏の詩⑾の中にとても端的にそれを表している一節がある。
『そのときの出逢いが』
出逢い
そして感動
人間を動かし
人間を変えてゆくものは
むずかしい理論や
理屈じゃないんだなぁ
感動が
人間を動かし
出逢いが
人間を
変えてゆくんだなぁ・・・
日常的な会話のなかでも、「なにか楽しそうね、いいことでもあったの?」とか、「あの人、前と変
わったわね。人間がまるくなったような、そして前向きな考え方になったわね。」などと人の印象を話したりする。
また、「頭ではわかっていても行動はなかなか変えられないわね。」という話も聞くし、私自身も実
感する。論理療法や認知療法という心理療法がある。論理を変え認知を変えていく技法だがそれらに
はロールプレイ法やイメージ法をつかったり、そして実際行動に移し試行練習を繰り返していく行動
法(行動療法)をつかったりする。これらは前出の頭ではわかっていても行動はなかなか変えられな
い、という人間の実態に基づくものである。
アメリカで論理療法を確立したアルバート・エリス氏の著書『性格は変えられない、それでも人生
は変えられる』のタイトルも『人が変わるということ』の意味するところを象徴していると思う。著
書のなかで「性格というのは、強い遺伝的な傾向を含みます。例えば内向性や外交性のように。非常に努力すれ
ばある程度このような傾向も変えることはできます。でも、完全には変えられません。」「自分の考え方や感情や行動
を変え、情緒的なストレスを減らすことができる。」⑿とあり、変わる可能性は考え方、感情、行動のよう
だ。これらの変化を持続することで、やがては部分的に性格を変えることも可能になる、ということ
だろう。
このように、相田みつを氏は「むずかしい理論や理屈が人を変えるのではなく、感動が人を変える
のだ。」と言い、アルバート・エリス氏は論理療法や認知療法を使って考え方(認知)を変え、それ
によって触発される感情を変えロールプレイ法で練習することで行動を変えていくという方法を提
示した。相田みつを氏の詩では感じることで結果的に人は変わると言い、アルバート・エリス氏の論
理療法は人が変わることを目的に考え出された技法である。
プレイバックシアターの重要な要素にストーリーテリングがある。長年このストーリーテリングを実践して
きたルース・ソーヤー氏の『ストーリーテラーへの道』⒀の中で、ジェームズ・スティーヴンズの『黄
金の瓶』の一説を引用して「心がきかないかぎり、頭には何も聞こえない。心が今日知ったことを、頭が明日理
解する。まず最初に感じることが必要です。」と述べている。
どちらも「人が変わる」ことは時間的・度合いの違いはあっても可能になるだろう。しかし、私は相田みつを氏やルース・ソーヤー氏の立場の方が瞬時にそして、生き方、引いては人格をも変えるほどの変化が可能になると実感する。
そこで、「人が変わる」とは、日常的に様々な環境要因により一過性的に気分が変わることと、あ
る時から考え方引いては行動までも変わる長期的な生き方が変わることと、二点に分けて考えてみた
い。
気分が変わること
ここで、 放送大学教材『感情と認知』⒁のなかの『感情とは何か』の一部を引用し『感情』と『気
分』の定義、そして感情の性質についてあらためて見ていきたい。
感情とは、人が心的過程の中で行うさまざまな情報処理のうちで、人、出来事、世界についてする評価的な反応で
ある。すなわち、感情とは心の行う作業においてさまざまになされる評価的な反応のすべてを指す。厳密な意味での
感情抜きの行為決定などというものはありえない。感情の理解なしには人間の理解はありえない。
感情の性質
@
感情はしばしば本人の意志では制御できない生理的変化を伴う。
突然目の前に現れた物体を見て心臓がドキドキするような、主観的体験が問題にされない部分を情動、affectと呼ぶ。
A
感情にはすばやく反射的に起こるときと、ゆっくり起こることもある。また、感情がずっと持続され長引くこともある。この長引いた感情を気分、moodと呼ぶ。
B 感情には生得的な制約を受けていて発達の初期に出現する一次感情primary emotionsと、学習・体験によって後に出現する二次感情secondary
emotionsとが区別される。
C 感情は主観的・評価的反応であることが多いが、同じ感情があるグループの人々に共有されていることもある。
D
感情はいくつかの特有な働きをする。例えば、あるものを好み、あるものを嫌うという感情に基づくとっさの判断は、人間の適応にとって大切である。また、感情はある特定の行動を起こさせ、ある種の行動だけを起こりやすくし、時には一生涯にわたってある種類の行動を持続させる働きをすることもある。さらに、感情は動作、言葉、作品(例えば文章、絵画、音楽、映画)などのかたちをとって表現され、共感させたり反発を招いたりして、人の間のコミュニケーションに役立つ。
さて、気分とは長引いた感情ということだが、気分が変わるときはどんなときだろう。例えば、朝
起きてお天気が良いとそれだけで一日良い気分でいられることもある。何かをしようと予定をたてていてお天気が良くて事がスムーズに運ぶと、更に気分は良くなる。しかし、途中で雨が降って来たり、何かに邪魔されたりして思ったように進行しないと、そこで気分はいらいらしたり落ち込んだりする。あるいは、何もする予定がなかったり、日光に弱い皮膚の人だったりすると朝の日差しで一日が憂鬱な気分になったりする。曇りや雨の方がかえって気分が良いという人もいる。
又、そうして良い気分で歩いていて知人に会い「おはようございます」と挨拶したところ、相手から返事が返ってこなかったりすると「挨拶をしているのになんて失礼なのだろう」と、気分は一変して嫌な気分になる。「何か考え事でもしているのかしら」と思える人もいるだろうが、余程余裕のあるときでないとそうは思えないだろう。
このように気分は外からの現象によって変化する。しかし、その気分は人によって時によって一定ではなく、その人がその時何に対して価値を置くかによって感じる気分は違う。
日本での感情研究のパイオニアである戸田正直氏は「感情は整然とシステム的に組み上げられた人間の環境適応の仕組みである」⒁と述べている。戸田氏はアージ理論を提案しているが、このアージ理論とは「なるべく時間をかけずにすばやく情報処理をし、うまく対処する人間の生存にとって重要な適応的行動を、すばやく選択するために人間に遺伝的に備わった感情より広義なものである」⒁という。
気分が変わることは適応的行動をすばやく選択するために人間に備わった感情というより、その人自身が他の人間や自然や事象という、外的現象とバランスをとるために出現する、自己防衛的作用の役割をしているのではないかと思う。茂木健一郎氏は『ひらめき脳』⒂のなかで、「不確実性を乗り越えるために感情は理性にコントロールされているのではなく、むしろ理性を支えている。」と述べている。
生き方が変わること
人がそれまでの生き方を変えるとき、生き方が変わるとき、それはどんなときだろう。人は年齢を
重ね時の流れによって変わることがある。それは、時代の変化や世代が交替することによって環境適応的に変わるべくして変わるのだろう。前出の論理療法や認知行動療法といった心理学的方法は、社会環境に不適応を起こして苦しんでいる人達に考え出された、考え方や行動を変え社会環境に適応し少しでも生きやすくなる方法を見つけるためのものである。それとは別に、誰かの一言や書物の中の一語で電撃的出会いをし生き方を変えることがある。あるいは、生き方について迷い悩み模索していて何かに出会って生き方が決まることもある。
精神科医で心理学者として大きな足跡をのこしたユングの伝記⒃の中で、著者は「クラフト=エビン
グの『精神医学書』をひもとき、そこでこころの医者というものがその見地から《人格の病》の問題にいかなる意味
をもちうるかを知るに至って、ユングにある種の稲妻のような啓示が与えられたのである。」と述べ、ユングのこ
とばとして「《人格の病》という言葉は、あのとき私を非常に興奮させました。私は、ある種の唐突で直観的な悟
りに圧倒されたように感じたのです。当時は状況を明確に言葉にすることは不可能でしたが、私は核心にふれたと感
じました。そして直ちに精神科医になろうと決心したのです。」と伝えている。
ユングのように、神の啓示が降りてくるような何かに出会い生き方を変えた人は偉人ばかりではな
く、市井の平凡な暮らしをしている人の中にもいる。それに出会えた人は、押し並べて苦悩し模索し求めて求めて、そうして言葉や人や出来事に出会い生き方を見つけ変わっていくのだと思う。
ユングの唱えた『個性化の過程』⒄は大変興味深いのでここに引用する。
「人間の意識は誕生のときから、長い時間をかけて次第次第に分化してゆく。自分はどのような人間であるのか、
どのような性格の持ち主であるのか、社会で生きてゆくにあたってはどのような義務と責任を果たさねばならないの
か、どのような世界観を持っているのか、どのような人生を送ろうとしているのか、等々についてそれこそ20年も
30年もの時間をかけて、その人らしい「私」を形成してゆく。そしてこのような長期にわたる努力を経て、一応「自
分はこうこうの人間である」という、それなりの意識体系・秩序が創りあげられる。ところが、人間の心には、無意
識の領野があり、その無意識からは「お前は自分がこうこうの人間だと思っているけれども、お前の心の中には、こ
のような『面』もあるんだぞ」という言わば「呼びかけ」「変容への要請」がなされる。折角、時間をかけてそれな
りの「意識体系」「意識の秩序」「私という人間」が形成されたのも束の間、心の奥深くからは「新たな『私』の形成」
「意識体系の変容」という課題が与えられ、意識はまたもや時間をかけて、「それなりの私」「新たな意識」の構築と
いう心理的仕事と取り組むことになる。そうして、時間をかけて「変容した私」「再び秩序を創りあげた意識体系」
が再形成されることになる。ところが、心の無意識からの「変容への要請」は生涯をかけて止まることがない。再形
成された「意識体系」「新たになった私」の心のドアに対して、心の奥深くからは、またもやノックがなされる。「変
容」には心理的エネルギーが必要であるので、さしあたりは「変容への要請」がすぐに聞き届けられることは少ない
であろう。しかし、「心の変容への要請」が声を止めることはない。声が聞こえなくなるとすれば、それはその人の
死が訪れる時であろう。かくして、折角変容して築きあげられた「意識体系」は、またもや「再変容」を余儀なくさ
れる。このように生涯を通じて営まれる意識と無意識との間の相互的な働きかけの過程、そのようにして絶えざる変
容を経て「その人らしさ」「その人の個性」が磨きあげられるプロセスが、ユング心理学でいう「個性化の過程」で
ある。
人は偶然に何かに出会い、結果的に変わっていくという考え方もあるだろう。しかし、ユングの「個
性化の過程」という考え方では、自己の中にある無意識からの「変容への要請」によって必然的に何
かに出会い「変容した私」になるのである。自分自身の人生を振り返っても、偶然のようにみえる
出会いが、すでに前世から神様が用意してくださっていたかのような必然性を感じたことがある。そ
して、それは前触れもなく突然やってきたかのように電撃的に感じるが、それ以前に新たな道を探し
て苦悩していた自分を思い出す。そのような出会いをしたとき、人知を超えたエネルギーを感じるの
である。
先人のことばに「求めよ、さらば与えられん」というのがあるが、このことをいっているのではな
いだろうか。
3.プレイバックシアターのアクター体験で何が変わるか
さて、プレイバックシアターに参加することで何がかわる可能性があるだろう。テーマである、アクター体験ではどのような自己変容が可能になるだろう。
まず、プレイバックシアターに参加しようとするとき人は「何」かを求めているだろう。楽しさかもしれない、刺激かもしれない、自分への気づきかもしれない、それこそ変わりたいという「変容への要請」かもしれないが、人によってその時によって様々であろうが、いづれにしても何かを求め何かを期待して来ている。そこですでに変化への準備がされているであろう。準備がされているところへ、「こころの声」「感情」を聞き、ある出来事や場面を演じそれを観て共有するという作業をするわけだから、変化が起きないはずがない。
人間中心アプローチという心理療法を確立し、後の心理療法家に多大な影響を与えたカール・ロジャースの著書『人間中心アプローチの形成』⒅の中で人格の変化や行動の変化が生じる条件についてロジャースの理論の骨格的なことが書かれているので引用する。
「個人は自己の内部に自己理解や自己概念、基本的態度、自発的行動を変化させていく為の大きな資源を内在させている。それらは、心理学的に定義可能な促進的態度に出会うならば出現してくる。
成長促進的雰囲気を出現させるには3つの条件が必要とされる。それらの条件は、人間の成長が目的とされるいかなる状況にもあてはまる。ここでは治療という視点から治療者の態度として説明する。第一は自己一致。治療者が専門家としての仮面で接することなく、自己自身であること。『透明』という言葉がこの雰囲気を伝えている。第二は受容。変化の兆しが受容され、大切にされ、賞賛される雰囲気。『無条件の積極的関心』『無条件の
肯定的関心』第三は共感的理解。来談者が経験しつつある感情や個人的意味合いを正確につかみとり、それを来談者
に伝える。
人間は受容され評価されるときに自己自身を大切にする方向で成長する。共感的に聞いてもらう時、自己の内面で
うごめく体験に耳を傾けることができるようになる。個人が自己を理解し評価するときにのみ、自己は経験と調和を
持つようになる。
これらの条件が存在するときに人格の変化や行動の変化が実際生じてくる。
プレイバックシアターにおいて、テラーが来談者といえるだろう。そして、コンダクターとアクターはテラ
ーのストーリーを『無条件の積極的関心』『無条件の肯定的関心』を持って受容的に、そして、テラ
ーが認知している意味だけでなく意識下にある意味、ハート オブ ストーリーまでをも共感的に聴
いているだろう。また、アクターは演じるとき自己一致し、自己の本質に触れているのであろう。テ
ラーはそのようにして傾聴されたストーリーを、即興劇として視覚映像的に認知することで成長が促
進される。テラーがストーリーを語るとき、その出来事・場面で生じた感情あるいは言葉では表現で
きない思いに執着している。その執着を手放し解放しないと先に進めないのだ。視覚的に劇でしっか
りと見つめることで、やっとそのことと向き合って、認知し受け入れることができ、やがて前を向い
て歩き出すことができる。観客は共感的に観ることで心の何かが動く。いわばプレイバックシアターには、ロ
ジャース理論のすべてが内在しているといっていいだろう。すなわち、人格の変化や行動の変化が生
じる条件に満たされていると言える。
先に触れた大場登先生の著書『ユング心理学』⒄では、身体と心理の関係について次のように述べ
ている。人間の「身体」も、「部分」だけ見られても、あるいは、「部分」にだけ治療を施されても、実は、長期的
には、いわゆる再発を繰り返す、換言すれば、本当の「癒し」は生じないことも次第に理解されつつある。あるいは、
「身体」と「心理」は別のものという視点でさえ、人間の実際には対応しない捉え方であって、もっとも単純な例で
言えば、「胃潰瘍」の治療に「外科的治療」あるいは、さらに「内科的治療」だけを試みても、その患者の生き方・
職場や家庭でのストレス・対人関係上の心理的傾向といった「人間全体」を見ない限り、患者の身体は「胃潰瘍」を
生み出し続けるということも、少なくとも理論的には理解されるようになりつつある。
また、人間中心アプローチを形成し、人格の変化や行動の変化の生じる条件を明確にしたロジャー
スは、このユングの影響が多大であると思われる。それは、ユングの唱えた心理療法の中で、「表面に
出ている症状・問題だけのいわゆる『除去』ではなくて、症状・問題を抱えたクライアントの心そのものを見つめ続
ける・受け止め続ける姿勢が必要である」⒄と述べていることから窺い知れる。そして、「ただ耳を傾け、受
け止め続けるだけのセラピストの同行のもとでこそ、クライアントの心は変容を始めるようである」⒄と続いて述
べている。
プレイバックシアターのコンセプトに「絶望は絶望として見せる。どんなに残酷でも非情であっても、ある
いは破廉恥であってもそれを容赦なく見せる」ということがあるという。それは、このユングやロジ
ャースの理論が背景にあるからこそ、テラーの人間的成長を信頼し演じられるのであろう。テラーは
その場で何らかの意味を持ったストーリーを語る。それは、一人で見ること・はっきりと認識するに
はとても勇気が必要で、なかなかできないことであったり、誰かに本当にわかってもらいたかったり
するストーリーである。そして語ったとき、その場にはコンダクターを初めとして、アクターや多く
の人達が受容的・共感的に傾聴し、テラーである自分のためにアクターが精一杯その出来事・場面を
演じて見せてくれる。一人ではなく、傍らにコンダクターがいて観客も見守っていてくれる。この自
己変容の生じる条件のもとで、しっかりと見て認識すれば、やがてテラーの心はある方向に向かって
変容の動きを始めるということを確信しているという裏打ちがあって、このコンセプトがあるのであ
ろう。
アクターはそのような態度で受け取ったものを、与えられた役の中で身体で表現する。それも他者
(テラー)のために。高橋和己氏は『人は変われる』⒆という著書の中で心理学者A.H.マスローの