卒業論文
存在にいたる手法としてのプレイバックシアター
−カウンセリングとプレイバックシアターを通して見えてきたもの−
田渕久仁子
2006年9月29日提出
目次
はじめに
T.私がカウンセリングに見ている思想
1.人間は本来学習者
U.カウンセラーの態度的条件とプレイバックシアターのコンダクター
1.カウンセラーの態度的三条件
V.カウンセリング場面に見られる特徴的な要素とプレイバックシアターについて
1.信頼関係を構築する
2.感情を重視する、感情の明確化
3.現在を重視する
4.場の重要性
5.沈黙を発語と同様に大切にする。
6.創造のプロセス
7.カウンセラーの態度
8.問題の解決よりも問題を抱えた個人の人格的成長を目的とする。
9.関係のない関係(テラーの尊厳)
10.時を待つ
11.概念にとらわれない
W.言葉の考察
1.言葉について
2.意味のレベルから身体のレベルへ
3.言葉の身体性
4.身体感覚としての言葉
5.動作としての言葉
6.音楽(音)としての言葉
X.言葉の深層へ
1.言葉の根源的な力
2.言葉が語るのを聴く
3.即興を成り立たせるもの
Y.聴くことについて
1.五大皆有響
2.如が如を聴く
3.我を捨ててゆく行為
Z.表現について
1.祝祭
2.プレバックシアターは総合芸術である
終わりに
存在へいたる手法としてのプレイバックシアター
−カウンセリングとプレイバックシアターを通して見えてきたもの−
はじめに
私がプレイバックシアターに出会ってから約3年の月日が流れた。この3年間に集中してプレイバックシアターのワークショップやスクールに参加することでプレイバックシアターの魅力やその奥深さを感じつづけてきている。
プレイバックシアターに出会う前は、カウンセリングの学習を主に続けてきた。私にとってはカウンセリングの学習から学んできたことが多く、その立場から人間に関しての理解を深めてきている。私の人間理解の基盤になっているといえるカウンセリング的立場からまずプレイバックシアターを考察してゆきたい。ロジャーズのカウンセリングに出会って長い月日がたったので、私の理解も変遷を遂げている。カウンセリングといい、プレイバックシアターといい、どちらも私の関心を喚起しつづけているものである。この手法の底にはさらに私を呼びつづけているものがあると思われる。ロジャーズの著書の中では“The way to do is to be”という老子の言葉を引用している。この言葉は,ロジャーズにふれたことがある人なら誰もが知っている有名なことばである。「いかになすかということは、いかに在るかということである。」とでも訳せるだろうか。彼の理論では、やり方よりも自分自身の在り方がとわれてゆく。ロジャーズの理論にふれた時から、その魅力に惹かれた私にとって、自分自身、そして人間存在の不思議を追求していくことは大きなテーマとなってきたのである。
現代社会において、人間疎外という言葉がいわれて久しい。私がカウンセリングに出会った25年前にもその言葉はすでにいわれていた。そのころはパソコンも携帯もなかった。それでも進歩しつづける機械文明にさらされる中でその危惧はいわれていたのである。まして、さらに機械化され、通信機器が加速度的に進化しているのがたった今の状況である。携帯、パソコンなどはほんのの少し前に登場したものであるにもかかわらず、今の世の中ではそれなしでは考えられないくらい生活の中に入り込んでいる。コミュニケーションの道具がこんなにも豊かになった時代はないのかもしれない。しかし、果たして本当にわれわれ人間同士のコミュニケーションは豊かになったといえるのだろうか?
確かに便利にはなったといえるが、利便性第一の前に人々の何気ないため息や、微妙な呼吸がないがしろにされていっているように思うのである。テレビのニュースなどでインタビューを受ける一般の人々の語りが、どれも同じようになっているのも、この圧倒的な情報過多の状況と、通信機器の影響を受けているように思える。職場での連絡もメールでやりとりをするところが多くなっている。相手の顔を見ながら、言葉を交わしながらの時間よりもパソコンの画面を見ている時間が長いのである。機械を通してのやりとり。メールのやりとりで、感情の機微を読み取れず、人間関係が損なわれた話も時々聞く。あのツールは、微妙なニュアンスを落としてしまう、あるいは読み取りにくいのと、即座に言葉が届いてしまう即時性のゆえに、字面のやりとりになってしまう可能性が高い。単なる情報のやり取りには優れたツールではあっても、心のやりとりには工夫を要するものである。かつてチャールズチャップリンは映画モダンタイムスで人間の未来を鋭く風刺した映画を作った。あの映画はもう70年も前のものである。歯車に巻き込まれていく人間の姿はとても象徴的だった。機械化は人間に幸福をもたらすと、まだ、素朴に信じられていたであろう時代に彼はあの作品を作った。彼の慧眼には今更ながら感心すると共に、今、われわれは、あの映画以上の状況にいるのではないかと思う。
管理され操作される存在としての人間。このような状況にあるのであればなおさら、われわれは意識的に自分たちにとって何が大切なのか、人間らしく生きるとはどういうことなのかを問いつづけてゆくことが、必要なのではないかと思うのである。プレイバックシアターは人間の共同体の中で早い時期に現れたといわれる演劇の形態をベースにしている。人間が共に暮らす中で自然発生的に生まれた演劇には、人間存在に対する問いかけが含まれていると考えられる。まず、最初にカウンセリングの考え方を取り上げながら、プレイバックについて考えてみたい。
T.私がカウンセリングに見ている思想
1.人間は本来学習者
私の学びの基盤となっているのは、C・R・ロジャースが唱えた来談者中心療法である。これは、非指示的療法とも呼ばれ、クライエントはクライエント自身の中に既に答えを持っているとする。カウンセラーはクライエント自身が自分で気付いていけるのを促進するような関わりをする。そこでは、カウンセラーはあまり指示的であったり指導的であるような関わりをしない。クライエントが語る言葉を聞いてカウンセラーはそれに注釈を加えるよりは、そのままその言葉を返してゆく。クライエントがクライエント自身で気付いていけるような対話を目指している。「人間はその成長へと向かうプロセスをこちらが邪魔しさえしなければ、自ずと成長へと向かうものである。」という、人間の成長力に信を置く思想に基づいている。この考え方は、仏典中の自然法爾(じねんほうに)という言葉を思い出させる。自ずから然らしむる、という意味である。この考え方は、東洋思想に見られる考え方である。
「ネイチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。“自然”に相対性はない。また客観的でない。むしろ主体的で絶対性を持っている。“自己本然に然り”という考えのなかには、それに対峙して考えられるものはない。自他を離れた自体的、主体的なるもの、これを“自然”というのである。それで道は自然に法とりて存在するというのである。西洋のネイチャアは二元的で“人”と対峙する、相克する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の“自然”は“人”をいれておる。離れるのは“人”のほうからである。“自然”にそむくから、自ずから倒れていく。それで自分をまっとうせんとするには、“自然”に帰るより他にない。帰るというのは元の一になるというの義である。」(1)
これは自然という概念に関して、鈴木大拙が西欧の自然観と東洋の自然観の違いを説いている言葉だが、アメリカ人であるロジャーズの人間観に、私はこの自然法爾に近いものを見るのである。以下の文章は生前のロジャーズとも会っている伊藤博氏の言葉である。
「”The way to do is to be”が老子のどの部分に相当する訳語なのか、これを引用しているロジャーズに直接に聞いてもわからなかったので,私は、わが国の老子研究家の第一人者である原富男氏におたずねしてみた。その結果,原先生から,それが老子第64章末尾の一句であろうというご指摘をいただいた。
それは,「輔二万物之自然一、而不二敢為一」(万物の自ずから然るに輔(したが)いて、あえてなさず)であり,原富男氏の現代語訳によれば,「万物がおのずからそうなりそうなっていくところに,順(したが)いおしきってしない」ということである。」(2)
一人一人が持っている力に大きな信頼の念を持っているロジャーズの考え方には、まさに宗教にも通ずる大きな目を感じる。この見方は私たちを取り巻く自然、そしてもともと持っている生命力に依拠する思想である。しかし、現在、自然から遠ざかる生活をしている我々にとって、自然の持つダイナミックな力、一個の生命体として元来有しているものを信じにくくなっているのも事実である。
現在この業界でロジャーズ理論は主流ではなく、少数派となってしまっているのも、現在の風潮と無縁ではないと思うのである。
U.カウンセラーの態度的条件とプレイバックシアターのコンダクター
1.カウンセラーの態度的三条件とは、
1)自己一致
自分の内面の感情をそのまま受けとめ、それを意識の中で否定したりねじまげたりしないでいられること。
2)無条件の肯定的配慮
相手をかけがえのない独自の存在として尊重する態度。無条件のというのは、カウンセラーの側の価値観や感情などを相手におしつけたりしないことを意味している。
3)共感的理解
ロジャーズは共感的であるとは、クライエントの世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかも『あたかも〜のように、as if 』を失わないことであると述べている。それは、クライエントの世界をそのまま受けとめ、同じように感じ入りながら、同時にクライエントの世界であることをカウンセラーは意識しているということだ。
この三条件からプレイバックシアターを見ていきたい。プレイバックシアターで何より大切にされるのは、テラーである。テラーを招きいれ、その話を聞いていくコンダクターにまず必要とされている態度は、2.無条件の肯定的配慮で述べているように、テラーに対する尊敬の念である。テラ−はひとりの大切な人として、迎えられる。それは、これから演じようとしているアクターたちにも求められる態度である。コンダクターはいろいろな局面を切り抜けなくてはならないが、特にテラーが話すストーリーの内容はたとえどのようなものであっても、受けとめられなければならない。それは、1.自己一致で述べているように、その時、コンダクターがさまざまな湧き上がる感情を経験しても、それを否定することなく、見つめてゆけるまなざしが必要になる。コンダクター自身がたった今の経験に開かれているということだ。
3.の共感的理解という点も、コンダクターは、テラーの話に同感、同情するのではなくテラーの世界によりそいつつもコンダクターである自分の立ち位置を守ることが必要である。
上記のようにロジャーズのカウンセラーの態度的条件として挙げられている要素は、プレイバックシアターのコンダクターに求められる態度にも重なってくるものであると思う。
V.カウンセリング場面に見られる特徴的な要素とプレイバックシアターについて
1.信頼関係を構築する。
カウンセリング場面では、カウンセラーのクライエントに対する、深い関心、敬愛の気持ちが伝わっていくにつれて、関係が出来てゆく。
プレイバックシアターではコンダクターとテラ−の間での信頼関係が重要である。テラ−にとって、その場が信頼できるに足ると感じられるその程度によって、語られるストーリーは変わってくる。ここでコンダクターの在り方はとても重要になってくると思われる。
2.感情を重視する、感情の明確化
多くのクライエントは、まず事柄(思考の言葉)から話し始めることが多い。
カウンセラーが語られる事柄だけにとらわれることなく、クライエントの感情や感覚の言葉に注意深くついてゆくと、クライエントは自分の内面世界に入っていく。
プレイバックシアターにおけるテラーは、アクターたちによって演じられるストーリーを見ることによって大きく感情が揺さぶられたり、自分のそのときの気持ちを再確認したりする。カウンセリング場面では主に言語によるアプローチだが、プレイバックシアターはさらに、視覚面と音(言語だけでなく)の両面から感情や感覚に働きかけられるので、より多面的である.
3.現在を重視する(今・ここの関係場面を重視する)
カウンセリング場面では、カウンセラーはクライエントが話す内容を注意深く聞いてゆく。そのときに最も重要だと思われている点は、クライエントの居場所である。何を言いたがっているのか、その時の自分がどれくらい言葉になっているのか、あるいはいないのか。そして、そのときのクライエントの核心へと向かってゆく。
プレイバックシアターではテラーの話のエッセンスは何かという言い方をする。ストーリーを演じるという目的に集約されてゆく聴き方をしている。ただ、あまりにも目的的になってしまうと、今、ここで語りたがっているテラ−の心情を微妙に損なう可能性があるのではないかと思う。このあたりの関わりはとても微妙なところだと思うが、コンダクターがその場面でやらなければならないことに重心がかかり過ぎて、隣にいるテラ−への配慮が薄くなってしまう可能性がある。これまでかなりの数のストーリーを見てきたが、その時のテラーに対するコンダクターの関わりのいくつかにそのような姿を私は見ている。コンダクターは隣のテラ−の現在の居所を十分に感じとりつつコンダクティングしていくことが重要である。
4.場の重要性
カウンセリング場面では、クライエントがクライエントなりに歩き気づく過程をとても大切にする。それはカウンセラーとの2人3脚で、ということである。深い気づきにつながるような時は、その場に深い集中と静けさが生まれている。安全で安心できる場の設定は重要である.
プレイバックシアターではコンダクター、アクター、観客とより多くの人間が関わってテラーを支えてゆく。テラーが自分のためにこれだけの人が関わってくれているという実感を得ることは大きな力をいただく場になっているし、そのような場は日頃の生活ではまれである。
5.沈黙を発語と同様に大切にする。
カウンセリング場面では、カウンセラーとクライエントの対話の深まりの過程で自ずと生じてきた沈黙は重要である。その沈黙の中で、クライエントはより自分の内面に肉薄する作業を始めていることが多いからだ。沈黙にも弛緩した沈黙、密度の濃い沈黙がある。同じく音のない状態とは言っても、その内容はその時々で大きく異なる。
プレイバックシアターにおいて、その時々で異なる沈黙に対してその内容をより敏感に感じとることが出来るなら、パフォーマンスのときも、ワークショップのときもファシリテーターは効果的な関わりができるのではないだろうか。
6.創造のプロセス
人間は誰しも自分の事については中々見えないものである。
自分自身で問題と思えていることも、カウンセリングを進めてゆくと違う角度からの視点を得ることが出来、思わぬところから開けてゆくことがある。その場面では、自分でも思いもよらなかった言葉に出会ったりする。それは、とても創造的なプロセスである。
プレイバックシアターの場合にもテラーとして話始めた自分のストーリーが、アクターたちのステージによってより深く演じられ、語った時とは違う風景が見えてくることがある。そこにはまさに創造的といえるものが働いている。
7.カウンセラーの基本姿勢がカウンセリングの性格を決定づける。
カウンセラーがまさに在るがままの自分で、自分の中に起きてくるさまざまな感情も決して抑圧したりせずに適切にクライエントに対して自分自身を表明できているとき、クライエントは、不安や恐れ、あるいは疑いのようなものを持たずに、その場にいることが出来る。クライエントはとても敏感であり、カウンセラーの態度が場に与える影響はとても大きい。
プレイバックシアターのコンダクターもテラーに関わるとき、そしてワークショップやパフォーマンスにおける、場に対して言葉を投げかけるとき、その態度は場に大きな影響を与える。出てくるストーリーにも影響を与えるものと思われる。テラーは微妙にその場で話せることを推し量っている。自分にとって重要な話であればなおさらである。
8.問題の解決よりも問題を抱えた個人の人格的成長を目的とする。
カウンセリング場面において目指されるのは、そのときクライエントが直接ぶつかっている実生活上の問題解決よりも、なぜそのような問題が起きてくるのかという、クライエントの在り方のほうに焦点付けがされてゆく。でなければ、いくら目先の問題を解決できたようにみえても、その人の在り方、あるいは見え方が変わらなければ、同じような場面を呼び込むからである。
プレイバックシアターは治療を目的としたものではないし、個人の在り方にフォーカスするカウンセリングとは異なる。しかしテラーの経験のみならず、アクティングなどの表現を通して、人間理解を深めたり自分自身の問題に気付く機会があり、いろいろな場面で個人の人格的成長は結果としてはかられる。
9.関係のない関係(テラ−の尊厳)
「カウンセリング場面においてクライエントが転換してゆくとき、つまり、大きく成長するときっていうのは、クライエントの側においてカウンセラーがなくなったときじゃないか、という感じがするんです。どうもカウンセラーがクライエントに意識されている間は転換が起こらない.・・・」(3)
これは、友田不二男氏の表現である。一見わかりにくい表現だが、私には、気付きのプロセスは、因果関係だけでは説明不能なものが働いているのだと読めるのである。その人の歩みは何人も立ち入れぬ厳粛なものである。
テラ−が自分のストーリーを見終わって、大きな感動に包まれながら、感想を述べているとき、しばしば感じることなのだが、テラ−自身が見たいものを見ているのだなあという思いである。客観的に見ればそのステージにもっとほかの要素もあったにも関わらず・・である。ストーリーはテラ−に捧げられるものだ。そのときのテラ−によって受け止められた事実によって、またそこからテラ−は歩いてゆく。誰も代わることの出来ないその人独りの歩みであるという厳粛な事実をそこに見るのである。尊厳という言葉で言えるものではないだろうか。
10.時を待つ
人間のことは時間を見ていくしかないことが多い。長年かかって生じてきたものは、やはりそれなりの時間を必要とするし、簡単に結論の出ないことも多い。また、時が最良のお医者さんである場合もある。人間の知恵のひとつとして、時という要素も重要な要素であることを知っている必要がある。カウンセリング場面でも時はとても重要である。沈黙の中にクライエントが沈み込んでいるように見えるとき、実は新しい気付きへの手がかりをつかもうとしている重要なプロセスであることがある。
プレイバックシアターにおいても、テラーがストーリーを見終わったあと、自分の席に戻ってゆくその足取りを見、現実の生活に帰ってゆくその先は、テラーに任せられたものである。願いを込めてその人の人生を見るという事は、人生は時間にゆだねるしかないことをわれわれが知っているということではないだろうか。
11.概念にとらわれない
一般的には、カウンセリングは狭義の意味では治療的関わり指すが、大きくは、人との関係においてある人が救われてゆく事実あるいは新たな世界との出会いの局面をカウンセリングといえるのである。ことに、人間に関わるアプローチは概念にとらわれるとうまくいかないことが多い。一人一人のありようはまさに独自であり、一般化や抽象化を拒んでいるものである。それは、プレイバックシアターにも通じるものがある。プレイバックシアターもまた、ここの内面世界に深く関わるものである。その現場で起こっていることを、常に新たに出会うものとして受けとめる姿勢が必要なのではないか。名称とその名称が指し示すものとの関係は言葉をどうとらえるかということにも関わってくる。私たちはともすれば名称(概念)にとらわれてしまいがちである。言葉の陥穽に落ち込まないようにもう少し考えてみたい。
カウンセリング場面とプレイバックシアター場面を比べた場合、やはり、大きな違いは言葉の比重のちがいである。カウンセリングの勉強からスタートした私は、言葉のはたらきについて、長らく関心を持ち続けてきたし、今も深い関心を寄せている。プレイバックシアターにおいても言葉は重要なものである。ここからは、言葉についてより詳しく考察してみたい.
W.言葉の考察
1.言葉とは
カウンセリング場面では言葉が大きな役割を果たす。カウンセラーとクライエントとがやりとりをするのはほとんど言葉によってである。そのため、カウンセリングの学習場面では、言葉によるやりとりを最も重視している。話す、聞くという機能の特に聴くという面が重要になってくる。カウンセリングの学習をはじめた当初は、相手の言葉を丁寧になぞるという訓練を受けてきた。その訓練の背景には、言葉はその人固有のものであり、命を持ったものである、という見方がある。こちらの考えや、使い方で言い換えることは、大げさに言えばその人の命を侵害することですらあるという考えである。そこで言う言葉とは、単なる伝達としての言葉、記号としての言葉ではなく、言葉には魂が宿るとする古代の人の言霊思想のような、言葉への敬虔な気持ちを見ることが出来る。ひとことの言葉によって閉塞していた世界が開かれる、次へのステップにつながるような出会いをする。私自身、言葉によって大きな気づきをいただいてきた経験が何度もある。言葉によるはたらきに大きな信を寄せていることはカウンセリングの特徴ではないかと思う。ただ熟達したカウンセラーになってくると、言語以外からの情報にも敏感になる。そのときのクライエントから発せられる言語以外のものも聴くといってもいい。私たちは非言語的メッセージを取り入れながら暮らしている。この言葉に対する洞察あるいは信は、プレイバックシアターのさまざまな場面にも生きてくるものと思われる.
「私は音声言語、文字言語だけが言葉ではなく、からだの動きも言葉であると考えている。」
「音声言語や文字言語とからだの動きは、お互いに拘束しあったり、増幅しあったりする。」 (4)
これは野口体操で有名な野口三千三氏の著書の中の言葉である。野口氏の言葉遣いを使えば、わたしは、音声言語による人間へのアプローチに長く学びながら、音声言語以外の言葉である、からだの動きにも着目するプロセスを歩いてきているといえるだろう。私のプレイバックシアターとの出会いもその線上にある。
2.意味のレベルから身体のレベルへ
カウンセリングでは主に、聴覚と言語機能というチャンネルを使ってやりとりをする。言語の性質の一側面である意味にとらわれてしまうと往々にしてクライエントのより深いレベルでの訴えたがっていることからずれていってしまうことがある。そういう時、クライエントの側でも、理屈で納得しても、肚の底では納得できないという状態になる。日常のやりとりは「事柄重視」であるし、考えるという行為を常の動作としてしまっているため「意味」に縛られてしまいがちである。よりよいカウンセリング場面ではカウンセラーは意味だけにとらわれることなくクライエントを聴いている。カウンセラーは呼吸を合わせ、バイブレーションの中に身を投じているといってもいい。
このシーンは、プレイバックシアターのコンダクターやアクターがテラ−の話を聞いているシーンに重なる。語られる言葉とともに同時に波動として届いてくるものを全身で聞いている。
3.言葉の身体性
優れた舞踏家である岩下徹氏のパフォーマンスを見たことがある。彼は何の前ぶれもなく、会場に入ってきた。ある大学の大講義室で、着席している私たちの間を縦横無尽に動き回った。私たちの日頃の動作とは異質の動きと表情で。
(そのパフォーマンスの後には,座談会もあり,彼の考えを聞くことも出来た。)自動詞としてのダンス、と岩下氏は名付けているが、それは動きを恣意的に出そうとする取り組みではなく、湧いてくる、滲み出してくる、何かが出てくる‥という感じらしい。身体が先行し、一馬身遅れて意識がついてくる‥そのような感覚であるという。意味につかまって動けなくなるときがあって、そういう時は、飛び出していけるときを探っているという。身体感覚に鋭敏でなければ表現できない、ダンスによるアーティスティックな世界とダンスによるコミュニケーションを追及している岩下氏の言動は、言葉と人間の深遠なかかわりを垣間見せてくれる。岩下氏は長く、ある精神病院の患者さんに対するアプローチを続けているという。その患者さんたちの中には、まったく何年も動かなかった重い症状の人が、彼のワークショップを受けて、突然動き出したというエピソードがあるそうである。身体表現による何らかの直截的な言葉がその人の心の扉を開かせたのかもしれない。
記号としての言葉は現実に存在するけれども、生命を持った本来の言葉は、人間の身体から離して考えることなどできないのである。
プレイバックシアターにおけるアクティングにもこのようなダンス的要素を見ることが出来る。動く彫刻、コーラスなどの手法のみならず、ストーリーにおけるアクティングにすらそのような、つまり、ほとんど身体が先行しているような演技である。
4.身体感覚としての言葉
「一般に五感と呼んでいる基礎感覚の「視・聴・嗅・味・触」は、主として外界の情報を受け入れるものである。そのために感覚とは自分の「外界に向かっているもの」という強い先入観が出来ている。私は感覚の本質とするものは、むしろ自分の内側に向かうもの、すなわち内界の情報を受容することにあると思う。」(5)
この野口三千三氏の言葉は、私のまなざしを内部へと向けてくれる。
この自分の内側で起きている現象(身体感覚)に目を向け、キャッチしてゆくことは、私がカウンセリング場面で相手の話を聞きながら、同時にしつづけている作業と同質のものであると思う。相手の話を聴くということは、自分を聴くことである、という表現がある。外界(相手)からやってくる音(言葉)を捉えながら、そのことにリンクして起きる自分の内界の音(言葉)をも同時に聴くという事である。
このことは、プレイバックシアターのコンダクターにもそれは大切な作業であると思う。どの場面でもそのように在ることが出来るなら、その時コンダクターは、自分が立っている地点に「名実ともに立つ」ことが出来るのではないかと思うのである。
5.動作としての言葉
日常の所作の中にすべてが含まれている。人間の精神性とか思想とかそんなことは横において、私はとにかく日常の動きを克明に描き出すことに腐心した。
これはいつだったか,ある公演の宣伝に配られたパンフレットに書かれていたある劇作家の言葉である。
プレイバックシアターのストーリーのステージからテラ−や観客はたくさんの言葉を受けとっていると言えるだろう。それはアクターたちが発するセリフだけを指しているのではない。その縦横無尽の動きから発せられる言葉を聞いているのである。
6.音楽(音)としての言葉
かつてアフリカンダンスのワークショップに参加したことがある。ジンベという太鼓のたたき手の太鼓のリズムに合わせて、ダンスをする。アフリカでは太鼓の音でコミュニケーションをしてきた地域があるそうである。また、心の病になった人を太鼓の音で調律して治すということも聞いている。メディスンとしての音である。
アフリカンダンスの基本的なパターンを練習したあと一人一人がドラマーの前に出て踊った。ドラマーは太鼓で語りかけてくる。それはこちらの内部に直接響いてくる。踊りの経験などほとんどない人たちばかりだったが、それぞれがジンベとの会話を心から楽しんだ。ワークショップの最後には、皆で輪になって、自分の番が来たと思った人から輪の中心に出て即興で踊る。これは本当に感動的だった。一人一人の個性がそのまま豊かに踊りに現れていた。
プレイバックシアターにおけるテラ−もミュージシャンの音を聴いている。と同時に言葉になった音も聴いている。テラ−はいわばたくさんの彩り豊かな言葉に包まれる体験をするといってもいい。観客もそうである。舞台による表現のすばらしさの一端をここに見ることが出来る。
私がプレイバックシアターのワークショップの中で、あるストーリーを見ていたときのことである。その時、舞台の途中で、ミュージシャンがひとつのメロディを入れた。私はその音を聴いた瞬間に期せずして涙があふれてきたのだった。一音によって、涙が堰を切ってあふれるという、とても心に残る場面だった。音が心の深層に働きかけるということだと思う。ミュージシャンが重要なアクターのひとりであるということを思わせられるのである。
X.言葉の深層へ
1.言葉の根源的な力
「騒がしくないことば、沈黙をどこかに秘めたことばとはどういうものかを考えたとき、それは個人に属しているものではなくてもっと無名性のもの、集合的無意識のようなところから生まれてくるものだと,僕は思う。」(7)
これは谷川俊太郎の言葉である。言葉にはいくつもの層があって、日常使う表面的なレベルから、人間の存在にふれるレベルまである。深いレベルの言葉は私たちをはるかな地点に連れて行ってくれる。遠い記憶、行ったことのない世界、見たこともないものにすらふれることが可能になるところ。言葉には、過去の人々が残してくれている知恵や、流されてきたたくさんの涙、血、怒り、苦しみ、喜び、祈り、などが刻まれているのではないか。日々のちょっとした瞬間に、今を生きる私の言葉として結晶することがあり、しかしそれは、私一人のものではないといえそうである。私の背後には無慮大数の人々がいて、私の先にもまた同様なのである。われわれは「言葉」という先人の遺産を受け継ぎ、次の世代に手渡す役目を持っているともいえるのである。
あるワークショップで、ストーリーを見ていたテラ−が、演じられている自分のストーリーを見ながら、ある場面から声をあげて泣き始めた。ひとしきりその強い情動が落ち着いてから、その人から発せられたのは、テラ−ズアクタ−のいくつかの言葉が胸に響いてきたという言葉だった。その場面で、私は言葉が喚起するものを思ったのだった。それは大変強い力があるといっていい。私たちは、言葉による照射を受けて、心身が揺さぶられるような体験をする瞬間があるのだ。それはまさにその時のその人のストーリーであるが、長い人間の歴史に通底するものを含んでいたともいえるのではないか。
2.言葉が語るのを聞く
「日常の言葉においては、人間は自分が人間や物について語る言葉を聞いている。ところが、詩においては、人間は物が物自身について語る言葉を聞いている。」(8) マックス・ピカート
「語るということはもともとひとつの聞くことである。それは我々が語っているところの言葉を聞くということである。それだから、語ることは同時に聞くことであるというのではなくて、語ることは前もって聞くことなのである。
我々は単に言葉を語るだけではなくて、言葉から語るのである。我々にこのようなことが出来るのは、ただ、我々が、そのつど、すでに言葉に聞いたということによってのみである。その時我々はいったい何を聞くのか。言葉が語るのを聞くのである。」(9) マルティン・ハイデッガー
ピカートもハイデッガーも言葉が語ると表現している。“私”が語るではなく、“言葉”が主語である。普通、話す主体は人間であるのでわかりにくい表現である。しかし、言葉のはたらきを考えてゆくと、言葉が語るとしかいい様のない現実があるのではないかと思うのである。文章を書いていると経験することだが、考えて書いたとは言えない経験をする。書いていくうちに、言葉がどんどんやってきて、書く前には思いもよらなかった文章がうまれ出るという経験である。それは、書く作業のみならず、絵を描く過程、作曲をするなど表現行為の過程でも起きてくることである。
この言葉のはたらきを見ていくと、私たちが日常の生活において、自分の判断や決断などで行っているとしていることも、果たしてそうなのか?そのようにとらえることに無理があるのではないかと思えてくるのである。実際には、自分にやってくるものを受けとめるという仕方でしか出来ていないのではないか。
プレイバックのストーリーで、神がかり的ともいえるような、何かが降りてきたようなシーンを見たことがある。場全体の深い集中がもたらしたものであったと思うのだが、テラーが最近亡くなった父親への痛切な思いを語ったシーンであった。そこで展開された演技は、アクターたちの自力の技とはとても思えなかったのである。それは、今の私には、「言葉が語る」といういとなみであったのではないかと言えそうである。
3.即興を成り立たせるもの
「私は絵を見るというよりはむしろ、絵に従って、絵とともに見ている。」(10)
「画家は『その身体を携えている』とヴァレリが言っている。実際のところ、〈精神〉が絵を描くなどということは考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体(けたい)を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚(ヴィジョン)と運動の縒糸(よりいと)であるような身体を取り戻さなくてはならない。」(11)
上記のメルローポンティの言葉は、言葉と創造性について示唆してくれるものである。深遠なレベルの言葉は「私が○○する」という自力のレベルを超えるものである。それは創造と呼ばれる営みと直接結びついている。私が自分の意識内で計らって出来ることなど大した事ではないのである。優れた芸術家は、
創造に関わるそのような消息について経験的によく知っているのではないかと思う。
プレイバックシアターは即興劇である。その即興性を成り立たせるものは、まさにこの言葉の持っている不思議な性質と不可分のものである。言葉が有している性質(はたらき)をよく見ることによって、この世界の仕組みの不思議に接近している。
創造性のかたまりであるようなプレイバックシアターに、私が今後も関わり続ける上で最も重要だと思われるものは、到来するものを受けとめる、「聴く」という姿勢である。
Y.『聴く』ことについて
1.五大皆有響
「かの弘法大師空海が著した書物に『聲字実相義』という書物があり、聲と文字の実相をといた書で、「五大皆有響」ということを言っています。五大というのは五つの大きなもの、具体的には、地と水、火、風と空。この五大は一般に仏教ではこの世界の要素とされています。空海いわく、一切の音聲は、五大、五つの大きなものを離れない。で、五大は聲の本体である。音響はその用なり。用は作用の用。で、結局五大というのは世界のことで、空海はそのことを別の言葉で十界、十の世界ということもいっている。・・つまり、世界のものは、どんな小さなものでも見えないものでも、言語、言葉をもっている。音を響かせているのだといっています。本体から生じた声が響きあい、それで明らかになったものが聲字の字、つまり文字になる。そしてそれが私たちの認識の対象になってゆく。空海は認識の識これも五大に加えて六大とし、六大を世界の要因としたようであります。」(6) 三善 晃−世界は音に育まれあっている−
この弘法大師の広大な宇宙観に習うなら、私たちは常に聴くことによって在らしめられているのだと言う風に思えてくる。未熟なまま生まれた赤ん坊はすでに備わった五感の中で最初に働き始めるのは聴覚だといわれている。そして、この世を去るときに、最後まで残るのも聴覚であると。私たちは生まれながらにして世界とコンタクトをとるように運命づけられている。聞こえてくるものとの出会いを通してこの世界を知り、たった一度きりの人生を歩いてゆく。
2.如が如を聴く
“如是我聞”我かくのごとく聞けり。仏典の言葉が改めて私にうかんできている。如という言葉は、…の如しという形で使われる。名付けられる前は、形も色も匂いもない、不定形の混沌とした世界を表す言葉である。如来とはまさに不可思議の光が仏という姿をとってやってきたことを指している。私も如であるし、あなたも如である。プレイバックに関わるアクター、ミュージシャン、コンダクターいずれも如を聴くという、難しい取り組みをしているのだろう。
3.我を捨ててゆく行為
聴くことはむずかしい。これはカウンセリングを長年学んできた者の実感である。相手の言葉をなぞると、前ページで記したが、そのことすら、実は簡単なことではない。ミニカウンセリングの研修では、カウンセラーの聴く姿勢を養うために、ひたすらクライエントの言葉、特に感情感覚の言葉を繰り返しながらついてゆく。一見単純に見えるこのやり方が、やってみると中々出来ないことが体験されてくる。私は常に自分の中にうかぶ想念にとらわれて自分自身の価値観から自由になれない。聴けなくなるだけでなく、自分の考えを伝えたくなったりする。
聴くという行為は実はとても大きな内実を含んだものだと思うのである。ともすれば私が、私が、となりがちな自意識を切り捨ててゆく行為でもある。
私は相手のためにという言葉の端から、その時点の「私」意識を離れることは容易には出来ることではない。少しでもその対話がうまくいけば聴き手の自分の手柄だと思いたがる。うまく進まないときには、いかにも(自分のせいでなく)相手に何かが足りないように思いたがる。相手に感謝されれば、自分がとてもすばらしい人間であると思いたがる。功名心、慢心、プライド、保身、私の中にはそのようなあらゆるものが備わっている。それら、いわば自己保身から生じると思われる感情から自由であるために、私は自分の刻々の姿をよく見ることが必要だと思われる。私の姿を明らかに見るプロセスで、自我意識の根強さに直面していくことが何より必要である。
プレイバックシアターのスクールの課程でもサイコドラマが義務付けられている。これも、自分をよく知るということ、自分の問題に直面することなしには、他者の問題に深くコミットする可能性のあるプレイバックシアターに関わる資格はないことを表しているように思うのである。
先日もあるプレイバックシアターのワークショップで、自己顕示欲の強いコンダクターがコンダクティングをしているのを見た。その場を仕切っている自分をみんなに見てもらいたい思いが前面に出ていて、せっかく語ってくれた参加者の言葉がどこかに飛んでいっているように見えたのだった。ストーリーの織り成す綾も1本目から2本目に移っていった時、切れてしまっているように見えたのだった。コンダクターもアクターも自分の姿をことさら顕示するために、そこにいるのではない。テラ−のストーリーをよりよく演じるためなのだ。だからわたしには、プレイバックシアターにおける立場も、我を捨ててゆく、エゴを脱してゆくことが重要に思われる。
Z.表現について
1.祝祭
飛ぶ鳥とめる
絵にしてとめる
あの音とめる
譜にしてとめる
思い(いのち)をとめる
形にしてとめる
この河合寛次郎の言葉は、私たち人間が表現になっていく営みの根本を表してくれている。プレイバックシアターは、何よりも舞台表現を観ることに特徴がある。私自身テラ−の経験を何度もしているが、語ったことを映像(絵)として見せてもらうことは、私の経験があらためて新たな姿を持ってそこに再現されることである。ここでの体験は「新たな言葉」を受けとる体験といってもいいように思う。演劇が人間の歴史の中でも最初の頃に出現しているということは、人間が表現への欲求を強く持っていた、言葉を代えれば人間が自分自身を知りたい欲求、また、言葉のはたらきによって、深みから呼ぶ声を聴きつづけてきたということではないだろうか。かつて、原初的な演劇は、神への奉納としての演劇であったという。
今の私たちがプレイバックシアターをする時には、神事としての意識はないかも知れないが、一人一人の抜き差しならない人生の重さに向き合う時、そこには、おのずからなる敬虔な気持ちが湧き出ているのではないか。人生の厳粛なる事実に向き合う時、我知らず呼吸が変わっていることを感じるのである。それは神と分かちがたく結びついていた古の人々の気持ちとどこかで通ずるものがあると私は思っている。
人間存在の不可思議について言葉への考察を中心にしながらすすめてきた。
私は、プレイバックシアターにしても、カウンセリングにしても、その底にあるのは、今ここにこうして共に在ることを喜ぶ気持ち、祝う心があるのではないかと思うのである。祝祭としてのプレイバックシアターである。
2.プレイバックシアターは総合芸術である。
優れた美意識を持っていた白洲正子さんの生け花とそれに添えられた文章とで編まれた本がある。彼女の生け花は、その花材だけで完結するものではなく、花と花器とそしてそのまわりの環境までを視野に入れた花活けだった。
プレイバックシアターもまさにそのようなものであると思う。アクターミュージシャン、コンダクター、テラ−、観客、その日一堂に会した人たちによってかたちづくられてゆく場である。テラ−を花にたとえればまさにその場の人たちによって、美しく活けられて、もっとも美しい姿で咲く。そのステージに携わる人たちは、全力を挙げて、花が最も美しく見えるように、場の雰囲気を読み花の意をくみ取り、舞台を作り上げる。立花という花活けがあるが、大作になると何人もの人が関わって大仕事になるらしい。目には見えないものに対する目までを要求されているのがプレイバックシアターなのかもしれない。
おわりに
プレイバックシアターについて、カウンセリングとの対照、言葉の考察、聴くという営みについて、など、書き連ねてきた。私の関心は、プレイバックシアターやそれ以外のさまざまな材料を通して、存在の不思議に少しでも自分なりに肉薄することであった。足りない部分も見られるがひとまずここで筆を置きたいと思う。人間に関心を持ちつづけてこられたのも、悲しいことや苦しいことがあったにしても、最終的に人の暖かさを感じる出会いをいただいてこれた賜物だと思う。これまで、関わりのあった有縁の方々に深く感謝したい。
〈引用文献〉
(1)
鈴木大拙 p25 (岩下栄次「人間論、人間関係論」)
全日本カウンセリング協議会出版部 1987年
(2)
伊東 博 p40 「カウンセリング概論」
全日本カウンセリング協議会出版部 1977年
(3)
友田不二男 「わが国のクライエント中心療法の研究」
ロージャズ全集第18巻 岩崎学術出版1987年
(4)
野口三千三 p214 「原初生命体としての人間」岩波書店 1996年
(5)
野口三千三 p215 「前掲」
(6)
三善 晃 p6−7 「世界は音に育まれあっている」
龍谷大学交友会関東支部 1994年
(7)
谷川俊太郎 p91−92(佐藤 学「身体のダイアローグ」)太郎次郎社
2002年
(8)
マックス・ピカート p61(大峯 顯 「花月の思想」)晃洋書房
1991年
(9)
マルティン・ハイデッガー p180 (大峯 顯 「親鸞のコスモロジー」)
法蔵館 1993年
(10) メルロー・ポンティ p261 「眼と精神」 みすず書房 2005年
(11) メルロー・ポンティ p257「前掲」
〈参考文献〉
西光義敞 「暮らしの中のカウンセリング」 有斐閣 1984年
岩下栄次 「東洋思想とカウンセリング(一)」
東京カウンセリング研修センター出版部 1972年
岩下栄次 「東洋思想とカウンセリング(三)」
東京カウンセリング研修センター出版部 1983年
内田 樹 「死と身体」 講談社 2005年