プレイバックシアター・スクール日本校

卒業論文

 

 

プレイバックシアターと昔話の関連性

 

 

2001年5月2日

佐藤久美子

 

 

 

    <目 次>

 

1.                 はじめに

2.                 昔話の発生

3.                 昔話の分類

4.                 昔話の構造とプレイバックシアターとの共通点

5.                 フロイト派とユング派の違い

6.                 7つの昔話

7.                 ストーリーの流れ

8.                 終りに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

始めに

以前から心理学を勉強しているので、河合氏の本はたまに読むが、ある時読んだ本の中に次のような供述があり、それが今回の論文を書くきっかけになった。

[自分の人格形成に強い影響を与えた書物について]というレポート課題を学生に出したとき、幼少児期の体験として昔話をあげる人が案外に多く驚いた。グリム童話集などのように一冊の本をあげた人もいたが、ある特定の昔話が強く心に残るものとしてあげている例も多かったと書かれていた。

それを読んで私はこれだけ人に影響を与えている昔話について、いつか調べてみたいと思っていた。今まで様々な所でたくさんのストーリーをプレイバックシアターで聞いてきたが、話を聞いているとどうも聞いたことがあるような話だなと思うことがある。後でよく考えてみると、昔話や御伽噺にとても近いのである。

また現在の自分の人生の状況を話し、それから連想する昔話を演じてもらうと状況の違いは多少あっても、本質はピッタリ一致することが多い。これは普通にお話を演じてもらう時より、さらに昔話の力が加わって、より訴えかけるものがあるように感じることがある。そしてプレイバックシアターのストーリーを深く探っていくと、1回の流れがまるで一つの話のようになっていることもある。また自分の人生が昔話のようになるように望んでいたり、主人公と重ね合わせたり、昔話に勇気付けられたりすることもある。

 このようにプレイバックシアターをやるにつれ、以前から興味を持っていた昔話とプレイバックシアターが切っても切れない関係なのではないかと感じました。そして今回は昔話の心理的解釈も多少加えながら、昔話とプレイバックシアターの関連性を探ってみることにした。

 

昔話の発生

 まず昔話がどのように発生したかについて調べてみた。スイスの分析心理学ユングは世界中の昔話や神話に共通して、典型的なイメージが存在することを重視した。そして人間の無意識を個人無意識と普通的無意識に分けて考えることを提唱した。つまり人間の無意識の深層は人類に共通の普遍性を持つと仮定した。

昔話の発生を心理的側面から考えるとある個人が何らかの原型的な体験をしたとき、その体験を出来る限り直接的に伝えようとして出来た話が昔話の始まりであると思われる。それが原型的であるということは人間の心の普遍性につながるものとして、多くの人に受け入れられ、時代を超えて存在し続けることを意味している。

それに対してベンフアイのようにすべて昔話をインドの仏教話の伝播として説明しようとするような人もあるから話の伝播ということは無視できないことであるが、すべてをこれによって説明するのは無理があるのではないだろうか。

異なった場所に類似の物語が独自に発生していることも事実としてある。そして注目すべきことは同じ原型的表現にしてもその時代や文化の影響を受けて、それぞれの特徴を有していることである。例えば「素晴らしい子」の原型の場合でもギリシャにおけるヘルメースやヘラクレスのイメージと日本の一寸法師や桃太郎とは随分異なっている。このように主に2つの発生が考えられるが、どちらが正しいというのでなく、時代や場所状況により複合的に発生し、伝播していったのではないだろうか。

 

昔話の分類

昔話は実に多面的な分野から研究されている。具体的には民族学、文芸学、心理学などの立場から研究されている。マックス、リューティはこの分類を「民俗学は昔話を文化史的、精神史的ドギュメントとして研究し、社会におけるその役割を観察する。」「心理学はその物語を心的過程の表出と考え、聞き手あるいは読者への影響を尋ねる。」「文芸学は昔話を昔話たらしめるものを確認しようと努める。」と述べている。その中で私は心理学的研究に関心を持ち、特にユング派の分析家の意見も参考にしてユングの普遍的無意識や原型の考えによって、昔話を見ていくことにする。

 まず始めに神話、伝説と昔話の関係を調べてみた。私たちが物語を無意識の心的過程の表出としてみる時、それが何であれ変わりがないのであるが、一応次のような区別は心にとめておいた方がいいのではないか。

 伝説は昔話を比較すると原型的な体験が特定の人物や場所と結び付けられて語られるものである。リューテイはこれを「伝説の出来事は現場から離れない。まるでうずくまったように特定の地域に結びついている。」とうまく表現している。

 これに対して昔話は特定の場所と時間からの思い切った分離があり、それは内的現実への接近を容易にする。「昔々あるところに、、、」という始まりは聞き手の心を外的現実から一挙にさそいだし、原型的に整えられた世界へと連れ込んでいく。リューティの「昔話は現実を抽象するが伝説は現実的な想像を強いる。」「昔話に出てくる彼岸の存在は概して均斉のとれた姿をしているのに、伝説に出てくる彼岸の存在はゆがんだ顔つきをしている。」などという言葉はこのようなことを表しているものと思われる。

 神話の場合はその素材が原型的なものであることに変わりはないが、それは一民族一国家のアンデンテイテイの確立に関係するものとして、より意識的文化的な彫琢が加えられている。このため原型的な素材を探る意味で神話伝説も昔話も同様に扱うこともあるが、神話伝説の方がより意識的な統制を受けているものと考えられる。

 実際、神話や伝説は時と共にその特定の場所や国、文化などとの結びつきの意味を失い、結局は昔話へと変化していくこともあると考えられる。昔話はこのような異なった時代や文化の波に洗われて、その中核部分のみを残しているとも言えるのではないだろうか。

 

昔話の構造とプレイバックシアターとの共通点

 次に河合氏森氏の本を参考に昔話の構造に踏み込み、この角度から特徴を取り出し、プレイバックシアターとの共通点を探ってみたい。

 まず昔話の6つの特徴をあげ、その後一つ一つ見ていきたい。

1 昔話はストーリーが単純で短く、全体が一つのモチーフに終始すること、しかもストーリーの展開や言葉の使い方に反復のパターンが多用されている。

2 物語の内容は現実と非現実の境界があいまいで、しかも超自然の不思議な事件があたかも当然のごとく起こり、現実と非現実がいとも簡単に入れ替わること。

3 意識と無意識をつなぐ。

4 動物や植物、道具や天体までもが擬人化され、すべての存在が分け隔てなく人間と同じ地平に登場し、人間と同じ地平に登場し、人間と同じように言葉を話すこと。

5 登場(人)物はそれぞれ象徴的な意味を持ち、たいがいは善人と悪人、巨人と小人、賢人と馬鹿というようなコントラストで配置されていること。

6 事件はテンポよく矢継ぎ早に起こるが、その情景の変化や登場(人)物の心理に関する描写はほとんどなくそれが外的な状況によって証明されていること。

 

1 昔話では長い歳月の間に口から口へと語り継がれて形作られたため、ストーリーの複雑な部分や細やかな描写の部分の多くは自然に削り落とされ、本当に必要な部分だけが残っている。

 一言一言が人間の普遍的な心理を表している大切な言葉、重みのある言葉、つまり単純化されているからこそ昔話は人間に共通する心理をありのまま映し出している。

 また同じフレーズの言葉が反復され、同じ動作が漸次的に進行する。これは昔話はもとより、語り手が語るストーリーを耳で聞いて楽しむものだったので、同じフレーズが反復されることにより、聞き手に適度な緊張感を与え、興奮を最高潮へと持ち上げる効果もある。この部分ではプレイバックシアターとの共通性が高い。プレイバックシアターではセリフを使うが、出来るだけ不必要な部分を削り取り、本質の部分のみを取り出し、しかも強調すべきところは強調してやることを目指してやっている。またコーラスやジャックの手法を用いて、同じフレーズを繰り返したり、気持ちを盛り上げていく工夫もしている。それが出来た時に、よりテラーの心に響き、昔話のように多くの人に自分の事として影響を与えることが出来るのではないだろうか。

 

2 現実と非現実の境界が曖昧であることや、容易にそれが入れ替わること。例えばカエルが王様になったり、幸運が一夜で無くなってしまったりということ。リューティは現実と非現実との境界が曖昧で両者の間を突如として移行する昔話の特徴を「一次元性」と呼んでいます。曖昧だからこそ人間の心にストレートに立ち入り、思いがけない人間社会の真実を突き、感動を誘うのではないか。また非現実であるからこそ、現実から距離を置いて、受け止められるという利点もある。

 例えば親子関係が多少うまくいかずに悩んだり、落ち込んだりしている子供が、シンデレラ・白雪姫のような継母から虐待を受けながらも、やがて素晴らしい王子様に巡り合って、幸せになるストーリーに接すると、現実にはありえないと思いつつも優しく健気な心を持ち続けることの大切さを感じるのです。

 つまり昔話は非現実なことを語るからこそ、現実に毒されない深い次元の真実を直感し  で伝え、人間が生きていくことの可能性を広げる。

 昔話と違ってプレイバックシアターで語られる話は現実に起こった話を語る場合が多いが、時には夢の話や幻覚の話を語る人もいる。夢の話はその時に深い部分からのメッセージを受け取ることもある。幻覚の話は現実との線引きがなされたりすることもある。またいつも自分が語った話を演じてもらうわけではないので、他人の語った話や夢の話を演じられるのを見ることは現実から距離を置きながら、自分のことも振り返る一種の昔話を読む時と同じ効果があるのではないだろうか。つまり現実から距離を置いて見ることが出来、深い次元の真実を直感レベルで伝え、人間が生きていくことの可能性を広げるという部分では共通しているのではないか。

 

3 意識と無意識をつなぐものである。

河合氏は本の中で「心理療法を受けているクライアントがある日突然昔話を書き、それがその人の心の状態を如実に表していた。その昔話をとっかかりにその人の無意識の世界で起こった変化や状態を昔話を通して解いていき、意識へつなぎ良い方向へ向かった。」と言っている。

 森氏もクライアントとのやり取りで昔話を出すことが無意識の部分を意識化させる上で効果があることを本の中で言っている。このように昔話は言葉のやりとりだけでは認識するのが難しいし無意識の中で起こった様々な変化を万人がわかる形で意識へつなぐことが出来るという効果がある。プレイバックシアターでも無意識からのメッセージでもある夢のストーリーを演じることで、気づきが得られたり明確になったりする。

 また他の人の話を聞き、無意識の部分に沈んでいた自分の話が突然浮かび上がり、それにより思ってもみない癒しが起こったりすることがある。

 また語られたストーリーが呼応し合ったり、共通するテーマが浮かび上がったり、あやを織り成したりする。プレイバックシアターも、昔話と同様に自然と無意識の部分がひっぱり出され、意識へとつなぐ役割を担っているのではないか。

 

4 擬人化が多用されて、全ての存在が人間と同等に扱われているという特徴。

 擬人化―現実と距離を置いた非現実を語りながら、より深い人間の真実を映し出すために用いられている。例えばうさぎとカメの話でも聞き手に距離をもって、客観的に聞きますが、無意識の内には人間のことが語られていると受け止めます。

 また展開や結果が動物同士の事としてストレートに語られているため、強いインパクトを与えるし、そのことから自然界のすべてに起こりえる出来事であるとも考えられる。言い換えればうさぎもカメも性質の違う別の人間を例えているのであり、擬人化はメタファー(隠喩)としての効果も生じさせている。プレイバックシアターでもこの点は共通しており、ストーリーに出てくる重要だと思われる物は擬人化され必要なセリフを話します。この場合にも時によっては、本当は語りたかったことや心に思ったことが表現されたり、思いがけない意外なセリフが出てきたりと人間が話すよりも、よりストレートに核心をつき、話の本質へと迫ることもあります。

 

5 象徴とコントラストの特徴は前のメタファー効果の延長戦上にすることですが、昔話をさらに面白くすると同時に深い味わいと示唆を与えている要素です。特に象徴はメタファーよりも共通性が高く、その分広い意味付けが可能とされ、人間の普遍性へと迫ります。例えば「3年寝太郎」では勤勉・努力・真面目をモットーとする私たち日本人の生き方をパロデイ的に鋭く突く物語で「努力逆転の法則」とか「果報は寝て待て」的な発想とでも言えるような人生の一面の真理、日々をあくせく働き、努力が報いられない現実や発明家たちに見られる偶然の背景を物語っているわけで、怠けと創造性の因果が象徴的に語られているのです。ストーリー全体に象徴性が豊かに発揮されていることは、奇想天外さを単なる空想ではなく、因果的に解き明かして、人生に深い示唆を与えています。象徴に加えて、昔話では登場人物や情景のコントラストがはっきりしていることも特徴です。大きさや形、色までも対極をなしています。コントラストは鮮明な方が幼い子供にも分かりやすく象徴としての機能も働きやすく心に訴えかけるインパクトも強くなります。

 象徴とコントラストにおいても共通している部分が多い。プレイバックシアターの中でもテラーによっては、自分の話を事細かにすべて説明するのではなく「山あり、谷あり大変だったが何とか乗り越えられて嬉しかった。」などと象徴的に表現する人もいる。逆に細かいディテールまで語られたが、話によっては象徴的に演じることもある。その方が見ている人が楽に見れたり、自分の話として受け止められやすかったり、インパクトがあったりするときもあるからです。

 またコントラストについては、プレイバックシアターも昔話と同じように本質を引き立たせるために、この話の中でのコントラストは何かを考えて、それが引き立つように演じるように心がけているので、共通していると言っていいでしょう。

 

6 事件から事件への連続的展開という特徴は昔話を簡潔かつリズミカルにしています。登場(人)物の心情を事細かく記述することはなく、すべて行動でもって示されています。

そして感情はすべて聞き手の想像に任されています。その代わり登場(人)物一人一人がすべて重要な要素として人間の内面、深層心理を構造化して、むしろ要素的かつ象徴的に表していることに気づきます。従って子供たちは毒リンゴによる殺戮などの事件や醜いヒキガエルから王子様への変身などの非現実な登場(人)物の変化を心の奥深い次元で、つまり無意識的に受け止め、人間として生きる上での本質を知らず知らずのうちに会得するのです。プレイバックシアターは感情をとても大切にしているので、感情の供述がない部分は異なっているが、場合によっては感情が聞き手の想像に任されていたり、逆に感情の供述があまりなくても、表現をしたりすることもある。簡潔かつリズミカルにする部分は共通している。語られた話をすべて演じるのではなく、必要な所をなるべくテンポよく演じる努力をしているからです。

 

フロイト派とユング派の違い

 今回昔話の心理学的解釈をもとにプレイバックシアターとの関連性を探ってみた。しかし心理学的解釈も様々あるので、ここで二つの学派の違いを探ってみた。

フロイト 人間の無意識的な願望充足の物語として解釈され、そこに潜在しているエディプス・コンプレックスの主題を露呈させられることになった。すべての昔話がもっぱら         性的体験から解かれる。それは月経や破瓜への恐怖、あるいはエディプス・コンプレックスを反映するものに違いないとされる。ベッテルハイムがフロイト派として有名。新フロイト派としてはE・H・エリクソンが社会的な視点を加味して分析している。

ユング 無意識に対する両者の考えの相違が大きい意味を持つ。ユングはフロイトよりも無意識を開く考え、フロイトのいうような意識によって抑圧された層を個人的な無意識と呼び、それより深く人類共通ともいえる普遍的な無意識が存在すると主張した。ユングの普遍的無意識の存在の主張は彼が研究した精神病者の妄想や幻想あるいは夢や幻像などと神話や昔話などのモチーフに極めて類似するものが世界共通に存在することを基礎としてなされたものである。無意識に対するユングの態度の特徴はフロイトのように、それを抑圧されたものとして否定的に見るのではなく、創造の源泉としての肯定的な面をも認めることであろう。合理的な見方や判断のみで答えを見い出すことが出来ない時、無意識が知を与えてくれるとユングは考える。現代は特に自然科学の急激な発達により人間の自我は肥大し、時に無意識との接触を失い、不安が増大してくる。最近になって民話ブームなどという現象が生じたのもユング派の観点からすれば人間の全体性を回復しようとする無意識的な欲求のためであると思われる。

昔話は全体的な観点からすれば、荒唐無稽に見えながら、知に満ち人間の全体性を回復する働きを持つために、時代を超えて語り継がれ、喜んで聞かれてきたと考えられる。元型そのものは無意識内に存在するものとして、あくまで仮説的なものであるがそれが人間の意識内に顕現したものが元型的であると考えられるのである。このような観点からすれば昔話は元型的な表象に満ちており、それらを明確にしつつ元型の持つ意味を明らかにすることがユング派の昔話研究の目的なのである。ユングはフォン・フランツ・カーストを始めとし、河合準雄、森省二、山中康裕、秋山さと子氏等数多くの人が分析している。

 

7つの昔話

次ぎにユング派の解釈を加えた代表的な昔話と実際に語れたストーリーとの比較をしていきたい。まず初めにユング派の森氏が7つの昔話を人間の成長過程にそった解釈を加えているので紹介したい。その後3つを選んで、実際に語られた話と昔話との共通点を探ってみたい。

 

3枚のお札

 3枚のお札は小僧さんが山姥に追われて、命からがら逃げる話。つまり主人公が妖怪から逃走することが中心テーマである。ここに登場する山姥は(母なるもの)の一側面で(母なるもの)の基本的性質は自らの中に生じたすべてを包み込んでしまうことで肯定的に機能すれば子供たちを産み、育てることになります。否定的であれば子供を呑み込んで死に至らしめることになる。ここでは小僧さんが成長していったため、いつまでも抱きしめていたい母親が山姥に変化したととらえられています。そして三枚のお札は山姥の世界―非現実的、女性的・無意識的で邪悪な領域から再び和尚さんの世界―現実的・男性的・意識的で聖なる領域へと戻る際の命綱と考えられます。そしてお札を投げたときに出てくる山と川はこちらとあちらの世界を分けるもの。つまり小僧さんはお札を投げて山と川にすることで、境界線を作り何とかあちらの世界からの侵入を防ごうとしたのではないかと考えられています。そしてこの話は児童期における呑み込む母親からの逃避の話だと解釈しています。

 

ジャックと豆の木

 ジャックと豆の木は牝牛とかえた豆がのび、それをつたって人食い鬼から金袋、黄金の卵を産むメンドリ、歌う黄金のハーブをとってきて、最後に人食い鬼を殺してしまう話です。最初の部分で貧しい母子家庭という父親を失った状態が描かれていて、生きていく上での物質的な充足と父親イメージの獲得が物語のテーマ、つまり主人公ジャックの人生  課題となっていることが示されています。まず森氏は牝牛の乳が出なくなったことから、ジャックが乳離れしなければならない時期、言い換えればいつまでも子供ではいられない時期に達していることを表していると言っています。また変なおじいさんはユングの元型の一つ老賢者(普通の人間ではもちえない深く豊かな叡智を発揮して   を与える救世主タイプの老人)と見なしておりこのおじいさんにより、母の庇護や支配から離れて、自立するきっかけとなったのである。そして豆は古今東西、魔法の力があって自らの力で逞しく育っていく可能性を秘めた作物という共通イメージを持つものであり、それにより母性との結びつきが強い−地から父性との関係があるー天へとつながっていったのです。そして差し迫った経済的ピンチは金貨により回避され、能動的な力を身につけたことの証明になるメンドリを手に入れ、情緒の豊かさ、やさしさを示すハープを手に入れました。最後に人食い鬼との対決を迫られますが、そのことが男性性や父性性の獲得につながり、彼が一人前の男性に成長する上で不可欠なことだったのです。ジャックは母親から分離を一つ一つ成し遂げるとともに、個別的な存在として父性性とも対決し、その怖さや危機一髪のピンチをうまく乗り越えることで、男性として自己確立をはかりました。子供が自立して「一人前」に成長するためにはこういう分離と個別化のステップを着実に踏んでいくことが不可欠です。つまりこの話は少年期における父性対決と自立の方向の話だと解釈しています。

 

鉢かつぎ

これは愛する実母が死の直前かぶせた鉢が原因でまわりから疎まれ、継母からも追い出された主人公が男性の愛を受け入れた瞬間、鉢が抜け落ち、宝物が出てきてその後幸せに暮らしたという話です。つまり年頃の娘が苦難の道をたどりながら大人へと成長する過程が主題となっています。母が死に至った13歳と言えば、子供時代に別れを告げ、心身ともに激しい変化がおこり、その不如意さの中で自分を見失いそうになってしまう青年期(児童期)へと足を踏み入れる年齢です。この時に鉢かつぎは否応なしに自立への課題を突きつけられることになったのです。ですから「鉢」は側に寄り添って見守ることが出来なくなってしまう母が与えた、まさに母性的な「守り」と言えるのです。その過程で悲嘆(境遇を嘆き悲しみ) ⇒ 絶望(どん底に落ちたように思う) ⇒ 離脱(もはや誰も頼れない) ⇒ 出立(何とか自分でやっていこう)という精神的な変化が現れ、自立へと向かっています。鉢かつぎの両親は情緒的な世界の充実ばかりに重きを置いていた人でした。だからこそ鉢かつぎは厳しい浮世の現実にわが身を置き、自らが働くことで現実を打破する必要があったのでしょう。そこには新しい世界を生み出す可能性が秘められています。そのような観点から鉢かつぎの苦難は再生への苦しみと考えることも出来るでしょう。

織田氏はこの時期を「仮面によって守られた変容の器の段階」と定義しています。つまり外側からは何の変化もなく、眠ってるように見え、蛹に例えられているが、その守りの中でゆっくりと成長し大きく開花するのです。そして愛を確かめ合った二人が家を出ようとした。その瞬間鉢かつぎの頭から鉢が落ちました。成熟した女性となり宰相殿の愛を受け入れることが出来たので、鉢かつぎはもはや母の守りを必要としなくなって、鉢から開放されます。そしてこのとき同時にこれまで使うことなく、しまわれてきた財宝も日の目を見るのです。一方宰相殿については、鉢かつぎを宰相殿の内なる女性像と解すれば、今まで無意識の中に未熟で異様な形のまま留まっていたアニマが、意識化され成熟した美しい姿に変容したと考えられ、彼もまた鉢かつぎと寄り添うことで、一人前の男性へと成長できたのです。

「鉢かつぎの物語」を通して幼少期から「疾風怒濤の時代」と呼ばれる青年期へと至り、やがて一人前の女性へと成長する過程を辿ってみました。子供から大人へと移行する青年期は身体の急激な変化や意のままにならない衝動、さらにはさまざまな人生課題に直面して心が大きく揺れ動く、人生の中で最も不安定な時期です。このような青年期において、鉢かつぎが直面したいくつかの境遇変化や事件にはまさに大人になるための試練であったと言えましょう。そのような降りかかる難儀を他人のせいにしないで、自分の問題として引き受けて素直に立ち向かい、辛さを乗り越えたからこそ、美しさや才能が成熟した形で開花し、自分に相応しい男性をも獲得して幸福になれたのでしょう。この話は青年期と大人になることの難しさの話だと解釈されています。

 

美女と野獣

美女と野獣は悪い仙女によって野獣に姿を変えられた王子様が美しい娘の愛情で魔法から解放されて幸福な結婚に至るというフランスの民話です。この話の中で母についてはまったく触れられていないことから、父子家庭と考えて間違いなく、それゆえ父と娘の結びつきが強く、精神的に離れ難かったという側面が伺えます。そして主人公であるベルが父から分離し、新たな男性像を獲得し、娘から女性へと成長していくことが、この物語のメインテーマであると考えられるのです。ベルは美しく気立てもよく、その上思慮深くて非の打ち所のない女性でした。そしてベルの心の暗い部分や裏面すなわち人間としての(影)の部分を二人の姉が引き受ける形で描かれています。自分の影に関心を持ち、それを受け入れ、うまく統合していくことが心の成長にとって大切なことです。またお嬢様育ちだった彼女が家事をしたり父の世話をしたりすること、つまり女性的かつ母性的な仕事をすることは母性的な守りがなかったベルにとっては、その取り入れ的行為であり、女性性や母性性を育む上では不可欠なことだったと言えます。河合氏は「父、娘結合の段階に住む女性も、それよりなお一段進もうとするとき、前よりも異なった男性像の受け入れを経験しなくてはならない。新たな男性像の侵入によって父、娘統合は破られねばならないのである。父娘統合を破る男性も、まず最初は怪物としてー時には鬼としてー認識させられるものである。」と述べています。父と娘が分離するためには、野獣と出会うことが必要だったのです。バラは女性性を意味し、ベルはバラに託して女性であることのしかもその中心を獲得することを求めていたと考えられるのです。結婚は娘性が一旦死んで、妻として生まれ変わることになる。つまり「死と再生」の体験を経て、女性は親からの分離を果たすことが出来る。最後のシーンで野獣を探し出そうとする行動は、二人の関係においてこれまで受身であったベルが初めて自らの意志で積極的に動いたことであり、この段階で彼女は愛の主体性を獲得したと考えられます。この話は父との結びつきが強かったベルが新しい男性像である野獣を受け入れ、女性として成熟していくというお話です。つまりこの話は青年期における内なる男性性(アニムス)の獲得の話と解釈されています。

 

セロ弾きのゴーシュ

 これは宮沢賢治が晩年に著した童話の一つです。この話は楽手の中で一番下手だったセロ弾きのゴーシュが三毛猫・かっこう・狸の子・子供を連れた野ねずみに出会い、関わっていく中で上達していき、最後は音楽会で大成功を収めるというお話です。ゴーシュはまず本来感情は豊かなのに、うまく表に表せない性格を指摘されます。感情機能を未分化な段階から、いかにして分化した段階へと発達させていくかが、この後ゴーシュが統合された人格へと向かう課題です。次に一生懸命セロを弾いても音が外れるゴーシュは、仲間と歩調を合わせることが出来ず、楽団の中孤立している点を指摘されます。従って彼の人格形成で大切なことは内向型の長所を伸ばしながら、人格の統合を図ること。すなわち内的な充足(セロの技術の向上)をはかり、それを外界へ伝える。(他の楽器との調和)ということなのです。そしてゴーシュと楽長との関係を見てみると、父性的な存在の楽長に対してゴーシュは怒りを感じても真正面からぶつけられず、楽長の方も彼を受け止める度量がないという一面があります。だからゴーシュの自己実現は父性性に欠ける楽長が指揮する楽団の中とは違った世界ではからねばならなかったということです。彼の住んでいたのが壊れた水車小屋ということから貧しいだけでなく、無意識の世界から豊かな恵みを受け取ることが出来ずに、彼の無意識は混沌として内在したままで、意識化されることのない状態にあったといえましょう。だから畑仕事をするのは、無意識の世界で音楽とつながることを助ける点でも意味のあることだったと言えましょう。そしてこの童話に登場する動物たちは無意識的世界を表し、それを次第に意識化させる媒介者であり、結果的には彼の成長を促す役割を果たしています。父性を象徴する楽長の力の前に屈していたゴーシュに、三毛猫は揺さぶりをかけ、父性への怒りを呼び覚ます「トリックスター」の働きをしましたし、かっこうは父性との対決を迫る。ゴーシュの(影)の役割を果たしていました。そして親子関係に恵まれていなかったと推測されるゴーシュは子狸との関係を通して肯定的な父子関係が体験でき、野ねずみの母子との関係を通して肯定的な母子関係が体験できました。つまりゴーシュは「トリックスター」と「影」からのメッセージを受け止め、肯定的な父子関係や母子関係とまみえることで、人格的にも大きく成長することが出来たのです。またセロの演奏が次第に上達することで象徴されるように、その人格的変容と平行して未分化な感情が分化し統合され、ゴーシュは豊かな感情表現が出来るようにもなります。そしてやがて外界への関心が見られるようになり、内向型への偏りも緩和され、他者を思いやる心の広さや深さも生まれたのでしょう。かくしてゴーシュは紛れもなく一人前の音楽家に成長したのである。この話は大人になる上での出会いと人格の変容と解釈されています。

 

白雪姫

 この話は実母の死後来た継母が白雪姫の美しさに憎悪し、亡き者しようとするが七人の小人に助けられ、それを紐・毒の櫛・毒リンゴを使って再度殺そうとするが失敗し、王子様と結婚するという話です。しまいには継母には真っ赤に焼けた鉄の上履きが用意されており、死ぬまで踊りつづけるしかなかったということです。ここでは白雪姫の母親にスポットライトを当て、すでに下り坂に入っている中年期の心理とその人生課題を考えてみます。王様の不在的な状況から始まるこの物語は、王と女王の聖なる結婚が何らかの理由で困難な状況に陥っていて、心の全体性が行き詰まり危機的な状況になっていたと考えられます。新しい妻が来ても夫婦関係に以前同様不毛な状態が続きます。だから余計に継母の関心はもっぱら外見に注がれ、美貌も常に自分がトップの座にいなければ、気がすまなかったのでしょう。また子供の成長期は親にとって人生の絶頂期を過ぎて老いへの入り口に差し掛かいます。そして子供が親から自立して離れていく時期でもあります。だから親は子供の成長を望ましく思う一方で、いつまでも子供のままでいてほしいという矛盾した思いを抱いたりするのです。だからこの継母のように無意識のうちに子供の心を死に追いやってしまうこともあるのです。紐を選んだのは子供の自立を阻止しようとする無意識が作用し、櫛は母と娘のもつれた感情を解きほぐす可能性を秘めており、白雪姫は無意識的にそれを望んでいたからこそ、櫛に手を差し伸べたという一面もあるのではないでしょうか。そしてオエリは「自分本位な継母が毒入りリンゴでエロスの破壊的な変成を招いた」と述べています。「リンゴ」に母の胸を象徴します。継母は子供を養う乳房を差し出しながら、その中に毒を入れたのです。つまり表向きは子供に愛情を示しながら、裏では寄せ付けないどころか否定しているのです。この話では継母が破滅の道程を辿っていますが、これは中年女性の無意識を象徴的な形で表していると言っていいでしょう。だからこそ継母の二の舞を踏まないためにも自分自身の変化を見つめ、ありのままの姿を受け入れていくことが大切なのではないでしょうか。この話は中年期に向かう母親の娘に対する心理を表していると解釈されています。

 

素直な心のワリニダード

 このお話はワリニダードという名の貧しいお年寄りが貯めたお金で金の腕輪を王女様に渡し、そのお礼の品を王子に、そのお礼を王女にと物のやり取りを何回か続けていました。そのうち王女様が訪ねてくることになり、困っていると二人の天使が現れ、泥小屋がお城になり、召使いも現れました。王女様に会い、結婚の意志を訪ねられましたが断り、その王子と結婚させ、その後長生きをして貧しい人を助けて素直な心のまま生きたというお話です。主人公の人生がそろそろ終わりへと近づいており、残された日々をいかに生きるかがこの童話のテーマになっております。ワリダードは貧しいながらも貯蓄をする質素で堅実な暮らしをしていたことから、心の豊かさを大切にしていたことが伺えます。しかし床下に貯めておいたお金は、ワリダードがこれまで抑圧してきた物質的な欲望を表しているのではないでしょうか。これまで変化を好まず、無意識を遠ざけて過ごしてきたワリダードでしたが、ここで扉が開け始めたので、内的世界への旅を始めなければならなくなりました。そしてアニマとの直面です。アニマはユングが男性の心の中に存在する永遠の女性だと言っています。彼はアニマの問題と向き合い、自分の中に取り込む作業をしました。だからこそ最後に人格形成としてアニマを統合する必要がなくなったので、王女様とは結婚せず助ける役割へとまわったのでしょう。そして彼のお金に対する矛盾した感情、つまりお金は価値がないと思う心理と価値があると思う心理が両価値な状態が意識化され、深刻な事態を引き起こすことになったのです。しかし追い詰められた末、素直に衣服、お城、召使いを受け入れることが出来ました。これは精神性と物欲が両立しないと思い込んでいたワリダードもその葛藤が溶けて、自分の考えが間違っていたと分かったということを表しているのではないでしょうか。そしてワリダードは人間としての人生課題、すなわち望ましい形で自己を確立することが出来、幸せな晩年を過ごすことが出来たのでしょう。このように残り少ない日々を心安らかに過ごすためにも未解決のまま放置された課題に取り組むことが大切です。このお話は老年期における心の成長の話と解釈しています。

 

次に3つの昔話とストーリーとの共通点を探ってみたいと思います。実際に探ってみると、意外と難しく昔話の解釈によっても違いは出てくると思いますが、比べてみたいと思います。昔話も実際に語られるストーリーも時にはただ一つの段階にスポットライトをあてた短いものであったり、多くの段階を通して語る長いものであったりもする。しかし共通する部分もあるのでそこを探ってみたい。

まずAさんの話から紹介します。Aさんは妹のBさんの話をしました。Bさんは姉が病弱だったため、あまりかまってもらえず寂しい幼少時期を過ごしてきました。大人になりCさんと熱烈な恋愛後結婚しましたが、仕事をしないチンピラのような人でとても苦労しました。子供が出来てもそういう態度は変わらず、周りで見ているAさんたちもすごく心配していました。その後離婚し、今はDさんとの結婚を決めました。Dさんはアトピーがひどいため治すために、二人で力を合わせていくことを決めているそうです。Dさんは子供とも馴染み,Aさんたちもいろいろあったけど、今はよかったと安堵しているとのことです。

 この話を聞いたとき、美女と野獣に似ていると思いました。河合氏は父娘統合をくずし、アニムスを獲得していくためには、始め、相手が鬼のように見えると本の中で語っています。この話の中でCさんは仕事もしないヤクザのチンピラのような人と言われていますが、もしかすると上記のようなことがあり、Cさんが鬼のような見え、少しずつ統合しかけている時に出会った、Dさんはもう少しいい状態に見えたという側面もあるのではないでしょうか。そして昔話では野獣でしたが、ここではチンピラ、次にアトピーという問題を二人で力を合わせて乗り越えていく点。一度父のものへ戻り、また離れていく点が共通しています。同じテーマの昔話で二度の結婚をする話が他にもいくつかあります。そして同じ人と結婚する話も違う人と結婚する話もあります。どちらにしても真の結婚をし、自分の内なる男性性(アニムス)を獲得していくという意味では変わりがないのではないか。

 次はEさんのお話です。Eさんは職場で出会ったFさんに合った途端、光を感じ、いつか一緒に仕事をしたいと思っていた。そのためにGさんと仕事をしていたがその間、山あり谷あり、本当に苦労を重ねてきた。10年間たってやっと自分が確立した時、Fさんとまた一緒に仕事が出来るようになった。苦労してやっと自分が欲しい現実を手に入れたというお話です。

この話はセロ弾きのゴーシュが未熟だったためみんなとの演奏に苦労するが、様々な動物とのかかわりを通して、技術的にも人格的にも成長をとげ、最後はみんなと素晴らしい演奏をし、好評をはくすお話ととてもよく似ています。そしてゴーシュは動物との関わりでしたがEさんはまずFさんそしてGさんとの出会いがきっかけで変容が始まったと   思われます。

 次はSさんのお話です。Sさんは父が暴力的だったため、幼少期いつ殴られるかわからない状況の中で暮らしていました。母が殴られているのをただ怯えて見ているしかないような毎日でした。そして大人になりOさんとの出会いがきっかけとなり、大きく変わりました。少しずつ自分の状況を冷静に見つめ、認めていくことが出来、自由になれて今は本当に嬉しいというお話です。これはまさしくジャックと豆の木のジャックが変な叔父さんに会うことにより、変容のきっかけをつかみ、本当に意味での、今までつかめなかった男性性、父性性を獲得し、一人前の男性へと成長していく話だと思います。Sさんはこの話の中では語りませんでしたが、ジャックのようないくつかのステップがあり、徐々に成長していき、少しずつ自由を手に入れ、ずいぶん楽になり、さらなる成長を遂げているのでしょう。

ここでは3つの昔話の心理学的解釈と実際のストーリーとの共通性を探って見ました。これはいくつもある中の一つの見方ではあるが、テラーが最も語りたかった本質を探る上では有効ではないだろうか。実際にアクターとして演じた後、「テラーは本当はここが一番言いたかったことなのではないか」と思ったり。テラー自身も見た後で、「一番見たかったのはこっちだったんだ。」と気づいたり、もう少しここまで見たかったとか、逆にここまではやりすぎと思ったりする。だから本当に難しいことだが、テラーが一番見たいものを瞬時に捉えることはとても重要であり、そのためにも昔話の心理学的解釈との比較は有効ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストーリーの流れ

次にストーリーの流れについて考えて見たい。昔話は一つの話にテーマや伝えたいことが入っている。プレイバックシアターのストーリーももちろん一つの話の中にもそれがある。さらに一回の流れ全体でも一つの話や共通のテーマがあるのではないだろうか。というのは、前の人の話を聞いて突然ストーリーを語りたくなったり、語ろうと思っていた話を語りたくなくなったりということがよく起こる。さらに一日が終わった後、今日はこういう話が多かったなとふと思ったりする。だからストーリーの流れについて考えて見たい。

ストーリーのストーリー性を探るためにある一回のストーリーを振り返ってみることにした。ではある時、公演で語られた話をまず紹介したい。

1 職場で天然ボケキャラクターとしてからかわれているAさん。新人が入るにあたって心機一転、しっかりしたところを見せようと後輩をつれてお弁当を買いにいくが、さっそく財布を忘れ初回そうそう面目丸つぶれ。

2 電話で土日も呼び出される職場で電話アレルギーになっていた矢先、配属先が移動し、これで土日勤務から開放されると思ったのもつかの間、翌日会社に行くと、人手不足から引き続き土日勤務を頼まれ、断れず落胆する。

3 23年間勤めた仕事を辞めることを手がかかってやっと高校を卒業した息子にいつ言おうか戸惑う。戸惑いながら言うと、思いもかけず、退職祝いをくれると言い驚いた。

4 花見のため友人が軽トラまで借りて、ラウス産のコンブを煮込んで作ったおでんを用意していたのに、お天気がみぞれでがっかりした。翌日別の友人と約束していた花見は快晴でとてもうれしかった。

5 プレイバックシアターの余興で、桃太郎の女版をやることになった。今までよく思われたいため、一歩引いていた私が桃子をやることになり、殻を破ることが出来た。新しい自分が開けてとても嬉しい。

次にストーリーの流れをよりはっきりさせるために、この5つの話を登場人物、関係性、場面、物、ブロック、テーマの6つの観点からそれぞれのつながりを探っていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一番から順に織り成されているテーマを見てみよう。

1 再スタートを切ろうとしたがダメだった。

2 再スタートを喜んだが次の日の落胆。

3 再スタートは思った以上にいいことが起こった。

4 落胆から喜び。

5 再スタート 新しい自分へワクワクしている。

 

1,2は期待したがうまくいかなかった。それに対して3は期待はしなかったが、思った以上にいいことが起こったと、1,2の話に呼応している。そして4では1,2とは逆の流れの落胆から喜びへと変わり、最後の5では新しい自分へとワクワクしているという話で終わっている。この一日は新しい再スタートに関係する話で、最後は変容を遂げ新しい自分にワクワクしているというところで終わっている。

 

 また次のような2つの流れもある。

1 つらいとあまり自覚していない 天然ボケ

2 つらい 我慢

3 多分つらかった時代 ⇒ やっとぬけた

4 春爛漫の桜 みぞれと快晴

5 桃子 花が咲いた 地味 ⇒ 派手

 

1 言いにくいけどしょうがなく言った

2 言えない

3 言いにくいが言ったらよかった

4 言えない

5 言えない ⇒ 言った

 

このようにつらい時代から春になり花が咲くという流れと、言いにくい言えないから、言いにくいけど言ったら思ったよりすごくいいことが起こった、という二つのテーマも見える。このようにストーリー同士が呼応したり、ストーリーが流れとなってストーリー全体で最後はとても幸せな状態になって、私たちに勇気づけのメッセージをくれているのではないだろうか。また細かい物や登場人物の一致点も見逃せない所だ。

例えば、1 自転車 3 自転車 4 軽トラ のように、乗り物が出てきたり、1.2.3は職場の話であった。4 桜 5 桃 であったりと関係性がある。

このようにテラーは色々なきっかけで話を思い起こさせられ、その中でも同じようなテーマを無意識に選びとっているのは、とても興味深い。また季節もストーリーに大いに影響を与えているだろう。職場は異動が多く、また桜の花が咲き、気分も冬のうつうつとした状態から晴れやかな春にかわるので、当然テーマも心機一転、春へ開花するというものになるであろう。今回は後から色々考えてつながりが見えたが、この研究を続けていき話を聞いている時から、つながりがわかっている状態を目指していきたいと思う。

 

終わりに

 これまで昔話とストーリーの関連性、プレイバックシアターの特徴を考えてきました。昔話を研究すればするほど、私たちは知らず知らずのうちに、昔話のように人生がなるように望んでいたり、重ね合わせて見たりと私たちに影響を与えているものだと思った。以前ジョナサンがコンダクターをするときに心構えとして「テラーが歩いてくる人間にこの人はどんなテーマでどんな話をするのかをいくつか頭の中で予想しておきなさい。」と語っていた。コンダクターもアクターも話の流れ、その日のテーマやテラーの表情、また人間の無意識の中にある普遍的な話を理解し、予想の引き出しを持っておくことは大切である。そうすることにより、この人が語ったことや語らなかったのに実は言いたかったこと、語れなかったことなどをある程度、想像しながら演じることが出来る。実際のシーンには出さなくてもそこまでの理解があると、ストーリー事態の深みや重みが違うのではないだろうか。そのためにも人間の無意識の中に深く刻み込まれている話の元型である昔話の研究をすることは有効であると思った。そしてこのことはすべての話がより普遍的な話として演じられるためにも大切である。またプレイバックシアターは昔話と同様に人の生き方の本質を示しており、希望を与えてくれるものであり、社会や自分自身の歪みを矯正してくれるものだということを再認識した。

 文を書くのが苦手な私にとって、今回の論文はとても苦しい作業であったが、文を書くのは曖昧なものをどんどん取り去って、本質のみにしていく作業だったので、まさにストーリーを演じる時と同じだと感じた。また人生をも表している気がした。というのも不明確でもとにかく方向性を決め、遊んでいくうちに、より行きたい方向が見えていったからだ。また自分の苦手な分野ではあるが、新たな側面を統合するということにもなった。そして自分の内面、内的成熟過程の確認にもなり、今後自分がどうしていきたいのかの準備にもつながっていった。今回の研究ではまだまだ不十分であり、研究をやることで新たな興味も湧いたので、今後このテーマについて引き続き研究をしていきたい。

 

 

 

キャラクター

登場人物

関 係 性

場   面

 

プ ロ ッ ト

 

テーマ

Mさんの話

後輩、

先輩、

上司

仲間

指導しなければいけない相手

相手が自分をサポート

からかわれている

信頼されていない

面倒を見る

職場

学校

弁当屋さん

自転車置場

財布

弁当

自転車

クレーム

楽しみにしている

待っている

 

再スタート、言い難い

気分一新したかったがダメだった

新学期 期待

まわりに影響される

天然ボケなのでストレスなし

Aさんの話

上司

部下

市民

断れない

よく思われたい

 

職場

3/31 明

4/1  暗

電話

クレーム

ピリピリ

 

異動 期待して落胆。土日に急に呼ばれる。ストレス

言えない

Yさんの話

息子

ねこ

 

世話する

心配する

それが逆転している

面倒を見る

職場

自転車

プレゼント

記念に残るもの

クレーム(ノーと言っている)

パッパラパー

退職

 

心機一転 ストレス

意外性

喜び

次のステージにいけた

期待なし

言い難いけど言った。

Bさんの話

友人

手放しでハッピーではない

手放しでハッピー

食べる人が少なかった

公園

3/31 暗

4/1  明

みぞれ 快晴

満開の桜

花見 おでん

軽トラ 

ラウス産の昆布

 

落胆から喜び

暗 ⇒ 明

期待

言えない

 

Cさんの話

友人

仲間

一歩引く

よく思われたい

バッと出る

殻を破る

手放しでhappy

プレイバックシアターのワークショップ

桃太郎 ⇒ 桃子

咲く

ジェンダー

昔話

パッパラパー

地味 ⇒ 派手

 

殻を破れた

咲けた

新しい自分へ

ワクワク

言えない ⇒ 言えた

 

 

 

 

 

 

<参考文献>

昔話の世界        河合 隼雄

童話と心の深層      森 省二、森 恭子、橋本和明

物語が心をいやす     森 省二 

アンデルセン童話の深層  森 省ニ

昔話の魔力        ベッテル・ハイム

ユング心理学入門     河合隼雄