アメラジアンとプレイバックシアター

沖縄の多文化性と歴史的背景を踏まえて

 

 

比 嘉 孝

 

 

アメラジアンとプレイバックシアター

−沖縄の文化の多様性と歴史的背景を踏まえて−

 

目次

1.はじめに

2.沖縄の歴史

3.沖縄における多文化性

4.現在ある歴史の現況

5.プレイバックシアターとは何か

6.プレイバックシアターにどのような役割を持たせるか

7.これからプレイバックシアターをどの様にするか

8.おわりに

 

参考文献.資料

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.            はじめに

 私が、プレイバックシアターに初めて出会ったのは、今から5年ほど前、沖縄の「ふきのとう」というグループ主催の1泊2日のワークショップだった。当時仕事にいきずまって精神的にどん底に在った時、見かねた友人の勧めで、藁にもすがる思いで参加したが、そのワークが私自身に命を吹き込み、暗闇から引き上げてくれた。その時、プレイバックシアターに出会わなかったらと、今考えただけでも背筋が寒くなる。

 そのワークショップは、沖縄の那覇から飛行機で1時間程南へ飛んだ、八重山島で行われた。比嘉良和さんのウォーミングアップから始まったが、他の参加者は、とても楽しそうに自由に伸び伸びとしていたが、私一人は、金縛りにあったように、身動きが出来ず1日中涙を流してばかりいた。人は心が閉ざされている時は、体は動かず、声も出ない事を体験もって理解した。

 最初は自分の心の癒しから始まり、そのことがきっかけで、もっと踏み込んでプレイバックを学ぶ事になった。しかし、ジョナサンのソーシャルチェンジのワークショップを受けてから、プレイバックシアターは自分自身が楽しむだけでなく(もちろん大切な要素で在ることに異論はない)、もっと社会と関わって行くことの大切さを教えられたような気がした。社会の矛盾、社会のひずみにプレイバックシアターがどの様に関わっていけるかを考えてみたい。それは、遠くに在るものではなく、自分の生まれ島沖縄、歴史の波に翻弄され、その中でも、第二次世界大戦後のアメリカ世(ユー)にあって、アメリカ兵と沖縄の女性との間に生まれたマイノリティの子供たちアメラジアンについて何が出来るか考えてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.            沖縄の歴史

今でこそ、沖縄の那覇より東京まで、2時間余で行き来できる上に、マスメディアの発達で、東京でのニュースやファッションが瞬時に見ることができる様になったことにより、様々な情報が共通できるようになったが、沖縄の県都那覇市を中心とした1,500Kmの範囲には、台湾、香港、中国の南部そして遠くはフィリピンのマニラ、韓国のソウル、北朝鮮のピョンヤンまで含まれるが東京は含まれない。そうした地理的な影響を強く受け、日本本土とは違った独特の歴史を歩んできた。そうした意味で琉球史は日本史にとって外国史の研究であるといっても過言ではない。では、どのような歴史を歩んできたか簡単に足跡をたどってみたい。

琉球・沖縄史の時代区分

 

テキスト ボックス: 先史沖縄 (数万年前~12世紀頃まで)…港川人に代表される更新世時代と、その後の約1万年の空白のあとにはじまった貝塚時代をいう。貝塚時代人は、われわれの直接の祖先で、九州縄文時代の影響をうけている。ただし、先島では縄文・弥生文化の影響をうけたあとはないので、区別して考える。

古 琉 球 (12世紀~1609年の島津の侵入まで)…日本文化の影響を残しながらも、大陸や南方文化の影響を強くうけ、沖縄独自の文化を築いていく時代。「琉球王国」の成立と発展の時代で、先島・奄美も編入する。

近世琉球 (1609年~1879年の「琉球処分」まで)…薩摩の武力による侵略で、「幕藩体制下の異国」として位置づけられる。

近代沖縄 (1879年~1945年の沖縄戦まで)…明治政府による「琉球処分」で王国が解体され、日本の一地域としての沖縄になる。

戦後沖縄 (1945年~現在まで)…アメリカによる占領・統治時代(1945年~1972年)と施政権返還後の沖縄県(1972年~現在)とに分けられる。

(沖縄史の始まり)

実際に沖縄の島々に人が住みはじめたのは、今から約3万年以上も前の旧石器時代のことである。

旧石器時代の次に来るのが、日本の縄文時代や弥生時代に相当する貝塚時代である。この時代の後期の遺跡からは、縄文式土器や弥生式土器とともに、紀元前2〜3世紀に中国で流通した明刀銭が出土している。この時代すでに日本はもちろん中国との交易があったといわれている。

 

(グスク時代)

人々が稲を栽培し、鉄製農具を使い、集落を形成したのは、グスク時代といわれる時期である。10〜13世紀頃には、按司(アヂ)と呼ばれる小領主が現れ、城(グスク)を築き領地を定めるようになった。14世紀には、領地をめぐる按司間の争いが始まり、やがて沖縄本島に北山、中山、南山と呼ばれる小王朝が生まれた。察度王の中山を始めとしてこれらの王朝は、相次いで中国の明に入貢している。

 

(琉球王朝の成立)

三山を統一したのが本当南部の佐敷より興った尚巴志で、玉城を浦添から泊や那覇港を抱える首里に移し、第一尚氏と呼ばれる王朝を樹立した。

第一尚氏の後を襲ったのは、王府で貿易や財政の実権を握っていた金丸で、尚巴王を称し、第二尚氏王朝を樹立した。第二尚氏王朝は、尚真王の時その黄金時代を迎えた。すなわち、オヤケ・アカハチ等の地方の反乱を平定し、王朝の版図を奄美地方から宮古・八重山地方まで拡大し、各地の按司を首里に集め、身分制度を定めて統治制度を確立した。また、明国との朝貢貿易を拡大し、南方のシャム、マラッカとの交易も行っている。その他寺院の建立を始めとした各種の土木工事を行い、また各種の芸能芸術を奨励している。「おもろさうし」が編纂され始めたのもこの頃である。

 

(薩摩の侵攻)

しかし、日本における幕藩体制の確立にともない、琉球王朝にもその影響は及び、17世紀の初頭、九州の薩摩藩が侵攻し、琉球王朝は薩摩藩の支配下に置かれることとなった。その結果、奄美諸島が薩摩に割譲され、貢租が義務づけられ、また外国との貿易が統制されることになった。このため、王朝存続の基盤を内政に求めざるを得なかったこともあり、向象賢や蔡温などの優れた政治家が現れた。また、流入した日本文化の影響で、文化、芸能が発達したのもこの時期である。

 

(明治から昭和へ)

日本でペリーの来航を契機にして明治維新を迎えると、明治政府は琉球と中国清との外交関係を断ち、沖縄県を設置する「琉球処分」を断行し、400年続いた琉球王朝は、形式的にも終わりをつげた。こうして沖縄も近代日本の体制に組み込まれることとなった。昭和7年政府は、これまで沖縄県からの国税の徴収額に比べ、沖縄県への施策の投資額が過小であったのを改め、沖縄県振興事業計画を策定し、翌年度から実施したが、これも戦争のため中止された。

 

(戦後の沖縄)

太平洋戦争の末期1945年4月米軍が上陸、3か月にも及ぶ地上戦が行われ、およそ20万余の戦死者を出した。敗戦により沖縄は、本土と切り離され米軍の統治下に置かれ、沖縄の各地に米軍基地が建設されるなど「軍事優先」の苦難な時代を迎えた。昭和28年沖縄を日本から切り離すサンフランシスコ条約が発効したが、沖縄県民はこれに反対し、激しい祖国復帰運動を行った。こうした運動が実り、1972年5月15日、沖縄は日本復帰した。


 

3.沖縄における多文化性

    前述の歴史の中からみてわかるように沖縄の人達が比喩で言う、「唐(中国)の世」から「大和(日本)の世」、「大和の世」から「アメリカの世」歴史に翻弄される中で多文化の影響を受けて独自の日本本土とは違う文化を形づくっている。

  「世(ユー)」という概念は沖縄の人々の間では深い意味を持って使われてきた。「ミルク世」、「苦世」、「いくさ世」、「世替り」、「世乞い」などのさまざまな表現に見られるように、「世」には状態、時代、時勢、社会といった複雑なニュアンスがこめられている。

この「世」概念は沖縄が体験してきた激動の歴史とその推移を総括する歴史認識上の特質にもつながっている。たとえば、1879年(明治12)の廃藩置県(琉球処分)王国体制から県政への転換をなす重大事件であったが、この事件を境とする前の時代(王国体制時代)を「唐の世」後の時代(県制時代)を「ヤマト世」と称し、「唐の世からヤマト世」への転換、つまり、「世替り」として歴史をとらえる。このヤマト世、沖縄戦(1945年)という「イクサ世」の登場によって終止符を打たれ、「ヤマト世からアメリカ世」へと世替り、「アメリカ世」が支配する戦後を迎えた。この「アメリカ世」も日本復帰(1972年)によって終止符を打ち再び「ヤマト世」に「世替り」したわけである。

時勢や時代社会を「世」ととらえ、その転換を「世替り」として理解するこの歴史認識の特質についてはこれまで、多くの知識人よって指摘され、論議されてきた。「世」概念と「世替り」認識は、現実の歴史過程において二重の表れ方をしてきたように思う。一つは歴史のもつ他律的な構造に規定されて、「世」は向こうからやってくるものであり、「世替り」は外部のインパクトによって生じるものだという消極的、受動的、諦観的な形で現れる場合である。この二重の表現が、その時々の歴史状況に応じてどちらかに重心をかけながら顕在化してきた過程がこれまでの沖縄の人々の歴史的認識の特質であったといえるだろう。

これまでみてきたように沖縄の人々は本土社会(狭義の日本社会)とは別個の歴史的あゆみをたどった。そのことが沖縄における多文化性を形づくった思う。私はここでは特に沖縄戦から今日まで、歴史の中でいえば半世紀というとるに足らない短い期間にそれまで沖縄の歴史にはみられない集中的な変化がおとずれたことによる社会変動「アメリカ世」から現在の「大和の世」における一点に焦点をあてる事で別の沖縄を見ることができる。

 

4.現在もある歴史の現況

 日本は単一民族の国だとよくいわれる。しかし実際には、在日朝鮮人、在日中国人、アイヌなど幾つかのエスニック.グループの中には沖縄で米軍人.軍属と沖縄の女性の間に生まれたダブルも含まれている。沖縄は日本の米軍基地の約75%が集中することから、ダブルのホームといわれ、日本全国のダブルの約4分の1にあたる3500〜4000人のダブルがいる(1981年の日本弁護士会の調査以降行政も含めて実態調査がなされていない)。

  彼らの人生は米軍の占領とその後の複雑な日米関係の歴史に翻弄されてきた。多数のダブルは1945年から1972年の米国占領下時代に生まれ、戦後の厳しい経済状況と反米感情の渦巻く中で差別、偏見の対象となった。当時一般的にはダブルのイメージは「戦争」「敗北」「占領」に関する否定的なもので、ダブルの家庭の貧困さとダブルの私生児は社会の汚点と見られていた。

 日本の伝統的な世襲制の家族制度のもとで社会からはじき出されたダブルは、日本に生まれ日本人の母を持つにもかかわらず、1985年の戸籍法改正まで日本国籍が取れない状況が続いた。また、既存の教育が無視していた複数の言語、文化的背景を持つ子供に、文字通りの『ハーフ』ではない『ダブル』の持てる場をという教育権運動そして養育費の問題等が社会的にクローズアップされたのは、ここ1.2年であるしこの問題はまだ今も続いている。

日本の米軍基地の75%が沖縄に存在すると言う現実の正否についての私自身の考えはここでは差し控えるが米軍基地の存在が、生まれてくる子供の父親が米国軍人.軍属となるような「国際結婚」の機会を創出している基盤になっているという現実は戦後60年近くたった今でも変わらない。

 

5.プレイバックシアター(Playback Theater)とは何か

      プレイバックシアター(Playback Theater)は、1970年代にジョナサン・フォックス(Jonatan Fox)により創始された。現在も進化しながら、各々のグループの様々なアイデアや、独創的表現方法を取り入りつつ、色々な分野で活用されています。

      プレイバックシアターは、個人的な体験等ストーリーを劇にして即興的に演じる台本なしの即興劇です。

     プレイバックシアターとは、オーディエンスにストーリーを語ってもらいます。そこで語られるのは、子供の頃の楽しかった思い出、学校で虐められたこと、その人の心に今も残るわだかまり等様々です。そこで語られたストーリーは、アクターによって自分の感じたままに表現され、そしてテラーへの「贈り物」として戻されていく。

   (1)アクターについて

        テラーが語ってくれたストーリーを、身体、言葉、布等を使って表現する役割の人をアクターというが、1番大切なことは、コンダクターによって引き出されたテラーの内なる声を、自分の5感を全て集中して、聴き取ることだと思う。自分自身が観客となって感動を受けるのは、勿論普段から、十分な練習に裏打ちされた、経験豊かなアクターの演じるストーリーには素晴らしい物があるが、それ以上に感動を覚えるのは、初めてプレイバックシアターのワークショップに参加し、初めてアクターをする人の中に見出すことができる。彼らの多くがそうであるように、テラーの話すこと一つ一つを聞き漏らすまいと真剣に、耳を傾け全てを受容し演じるからではないだろうか。

        私自身について言えば、アクターは一番苦手だが、スクールで経験豊なアクターが演じるのを見て、表現の豊かさに飲み込まれ、全く萎縮してしまうからである。本当にアクターとして大切な事は、テラーのストーリーに真摯に耳を傾け、自分が感じたままに一生懸命演じることだと思う。テラーや観客が感動を受けるのは、心の中に一点の曇りも持たず、懸命に演じているアクターの姿に感動するからです。

   (2)テラーについて

         プレイバックシアターにおいて、テラーは重要な役割を果たしています。まずテラー無しにはプレイバックシアターが始まらないからです。テラーの語ってくれたストーリーから全てが始まるからです。テラーは、自分の物語を演じてくれるアクター、そして観客に信頼を置くことで、自らの心を開き、時としては、自分自身が触れたくない物語を語るわけですから、勇気や決断が要ります。しかしその一面自分のストーリーを観る事により、アクターや観客が自分を受け入れ大切にしてもらっている事の実感から、自己に対する肯定、自己を受容するという大切な「贈り物」を得ることができまる。

    (3)コンダクターについて

          ワークショップ、パフォーマンスの何れの形式であれ、テラー、ミュージシャン、アクター 、そして観客とどれをとっても重要な役割を担っているが、コンダクターの果たす役割、責任は他に比較できないほど重要な位置を占めます。それは、大海原を航海する船長のようなものです。たまには、凪の日もあるでしょうが、しかし海は生き物です。さんご礁で座礁する危険な場所、時化や荒れ狂う嵐に遭うことも多々です。そうした予断出来ない大自然、そして船の進路、エンジンの調子、乗組員の健康を把握し、全てに神経を集中して、その状況に応じた判断を的確に下していく役割は、コンダクターの役割とダブってきます。いやむしろコンダクターは、海図を持たない船長かも知れません。ワークショップ、パフォーマンス何れにせよ、その1つ1つが参加する人、空間、流れ、雰囲気等何一つとして、同じものは無い。その中でテラーとアクター、観客、ミュージシャンそれらを繋ぐパイプ役として、また統括者として全てに神経を集中し瞬時に判断する能力が求められるからです。しかし、その役割の中でも大切な事は、冷静で肯定的に自分自身をしっかり見つめることができる事が一番重要なことだと思う。

         

6.プレイバックシアターにどのような役割をもたせるか

    プレイバックシアターとどのようにかかわっていくかは、リーダーシップに参加した仲間一人一人違うと思う。私自身、アクター、コンダクター、ミュージッシャンどれ一つをとっても未熟だということは十分承知している。そしてこれから記述していくことが、はるかかなたの目標であることも十分理解しているつもりだが、一歩一歩確実に目標に向かって進んでいきたい。

    前置きが長くなったが、PTにどのような役割を持たせるかということに対して、具体的に自分が今、目標としている(かかわっていこうとしている)多文化性の実現に向けて、「アメラジアン」との中で、どういう役割を持たせることができるか考えてみたい。

その前に「アメラジアン(American−Asian)」という聞きなれない言葉の説明、沖縄での置かれている立場、問題点等を長くなるが記述してみたい。「アメラジアン「American−Asian」とは沖縄に暮らす米国人の父親とアジア人(日本人)の母親をもつ子どものことで、その母親たちが名づけた造語である。しかし「アメラジアン(Amerersian)」というのは、まったくの造語ではない、Webster’s New Worldに「米国人とアジア人を両親にもつ人、あるいは、そうした祖先をもつ人」と説明されている。

ベトナム戦争で東南アジアに12万人とも言われるアメラジアンが誕生した1970年代から使われ始めた。日本の米国基地の約75%が集中する沖縄では2万人を超えると推計されているが、国籍や養育費など、取り巻く問題が表面化することはほとんどなかった。「本土」が沖縄に強い続ける犠牲に起因する反米感情や「基地問題」との定義付けが問題の本質を歪めてきたからだ。しかし、問題の基点として、やはり米軍基地の存在を指摘せざるを得ないだろう。基地が存在することは、二つの点において、アメラジアンの生活及び「沖縄」や「日本」に対する意識のありようを直接にも間接にも規定している。一つは、基地の存在が生まれてくる子どもの父親が、米国軍人、軍属となるような「国際結婚」の機会を創出するような基盤になっていることである。いま一つは、この事実が基地の重圧に苦しむ沖縄社会のアメラジアンにたいするまなざしに重大な影響を及ぼすものとして作用していることである。アメラジアンは米国人とアジア人の「ハーフ」というエスニック・マイノリティであるだけでなく、否応なく沖縄の基地の関連をイメージさせる存在としても了解されている。アメラジアンの子どもやその母親への「いじめ」や中傷攻撃などは、機智を押し付けられている沖縄の現実とけっして無関係なのではない。なによりも「基地の落とし子」「米軍制下の落とし子」という社会の側からの名づけは、かれらを「基地」のある種の象徴として沖縄社会の姿を色濃く映し出している。

沖縄人(ウチナーンチュ)は自分たちは、本土から差別を受けたという被害者意識をもっている。そして沖縄のマイノリティーである「アメラジアン」は沖縄人から差別されているという被害者意識を持っている。このような意味において二重の意味において、マイノリティーである。

 プレイバックシアターの果たす役割は、前の章で述べたように、演劇の要素、セラピーとしての要素をあげるが、最近ジョナサンがよく話す(自分はそう思っている)ソーシャルチェンジの係わりの中で、実はこの「アメラジアン」の問題が日本や沖縄社会の単一民族的な思考形態のもとで「多言語、多文化的な生活背景をもち、それゆえ多言語、多文化的の教育ニーズをもつ「マイノリティ」とされる在日朝鮮人や「アメラジアン」の多文化共生にプレイバックシアターが果たす役割があるのではないだろうか。なぜならプレイバックシアターは、男女両性および多様な社会階級、人種を超えて、お互い認め合い、平等な機会を得ることができるほか、どのような文化的背景の中にあっても一つ一つの異なった要素を統合することができると思うからである。

 

7. これからプレイバックシアターで私が伝えたいこと

 私は、リーダーシップTの中で、これからプレイバックシアターをどのように自分の中で活用していくかというジョナサンからの問いかけの中で、「今すぐマイノリティー、社会的弱者へプレイバックシアターを、活かしていこうという力量や行動力はないが、心の片隅にマイノリティ、社会的弱い人達と将来プレイバックをやってみたい」という想いを伝えた。しかし、今までアメラジアンの問題が身近な所に存在するということすら知らなかったし、今まで、プレイバックシアターは、先ず自分自身が楽しむ、そして、もう少し目標を目標を高いところに置くとすれば、沖縄にプレイバックシアターを広めるという漠然とした想いしかなかったが、リーダーシップの中でジョナサンが話した中で「、結構高いお金を払って、このスクールやワークショップにこれる人達は幸せである。しかし、社会的に一番プレイバックを必要としているがプレイバックシアターを受けられない人達、まだ知らない人達―――――」の一言から、今自分自身が、取組むべきものは社会的な弱い立場にある人達に、プレイバックシアターを知ってもらう事だとの想いを強くした。

 

8.おわりに

   論文の課題を決め、ジョナサンの了解を得たのが昨年の11月、実際に論文に取り組んだのは、2ヵ月間の長期出張を終え宮古島から帰った2003年の2月末からだった。テーマこそ「アメラジアンとプレイバックシアター」と決まったが、資料自体が少なく毎日が悪戦苦闘の連続で悪戯に時間だけが過ぎていった。

      土日は勿論の事、年休も貰い片っ端から関連する資料や本をとにもかくにも、読破していった。しかし、実際にまとめていく段階になって、テーマの大きさに、目の前が真っ暗になった。自分自身の生まれ島沖縄の歴史、その中に生きて、歴史のはざ間に埋もれた人々、第二次世界大戦後のアメリカ世(ユー)の中から生まれたアメラジアン。その人達への理解や知識が殆どといっていいくらい皆無だった。1冊1冊の本を読むたびに目から鱗と言う感じがした。自分自身の不勉強を悔やむ前にどんどん時間は過ぎ去っていった。毎日が気づき反省、そしてまた気づき、反省の繰り返しの日々だった。また、何よりもこのテーマに取組むには自分の知識能力では厳しいものがあったし、自己管理のまずさでテーマに取組む時間も少なすぎた。だから自分自身の中では決してこれが卒論だと言える代物でないことは十分理解している。初心に返りスタート台についたというのが本音である。

この論文を終るに当り一つだけ自信を持っていえる事がある。自分とプレイバックシアターの関わりについて自分の進むべき道が明確になったことである。プレイバックシアターは、気づきを与え、愛を与え、癒しを与えてくれる。しかし、一番それを必要としているにも拘わらず、様々な事由でワークやスクールにこれない人達に経験してもら得る機会を提供することである。それには、現在の居心地の良い自分のスペースから飛び出して、彼らの中に飛び込むことである。一人では難しいが、今までのように、自分自身1人で何事を背負うのではなく、自分の周りの仲間の力を信じて、目標に向かって一歩一歩進んでいきたい。

どんな、偉大で実現不可能と思われた事も、最初はたった一人の『夢』から第1歩を踏み出した。夢が目標になり、それに向かってチャレンジし行動することにより、それが周りを動かす大きな原動力となる。それが、『夢を現実に変える』。そのことを信じ今から一歩を踏みしめたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献.資料

 

@      これならわかる 沖縄の歴史  棋澤和夫  大月書店

A      世替りみる沖縄の歴史     伊波勝雄  むぎ者

B      おきなわデータ算歩      伊波貢   沖縄タイムス社

C      アメラジアン         上里和美  かもがわ出版

D      アメラジアンスクール     照本祥敬  ふきのとう書店

E      沖縄の人と心         沖縄心理学会編  九州大学出版

F      沖縄県勢のあらまし(H13.1) 沖縄県企画開発

G      沖縄の県民像         沖縄地域科学研究所編 OKINAWA BUNKO

H      マイノリティの子どもたち   中川明   明石書店

I      沖縄、基地なき島への道標   大田昌秀  集英社新

J      概説 沖縄の歴史と文化    沖縄県教育委員会

K      沖縄の素顔          新崎盛 編 

L      異文化接触と変容       沖縄国際大学公開講座

M      高等学校 琉球沖縄史     沖縄歴史教育研究会 新城俊昭

N      多文化教育          中島智子編著 明石書店

O      多文化教育          ジェームズ・A・バンクス サイマル出版

P      琉球大学 教育学部紀要 第56集 アメラジアンの教育 運動(1)

Q      沖縄県民 沖縄地裁科学研究所編   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 資料−1

 

沖縄では米軍人やその家族が5万人近く住んでいることもあって街中で比較的外国人を目にする機会が多い。しかし、各市町村に登録されている外国人の数(米軍関係者を除く)は全県民133万人余りの0.6%にすぎず全国平均1.4%を大きく下回っている。意外に外国人は少なく、国際化が遅れている島なのだ。

 

平成13年末における県内の登録外国人数は7,841人。全国的に国際化が話題にあげられている割には少ない。また、登録外国人の国籍で 全国と大きく異なるのが特徴だ。沖縄は歴史的に大きな影響を受けた米国と中国の登録者だけで約半数を占める。それに次ぐのがフィリピンで、この3国で全体の約7割を占める。一方、全国では韓国、朝鮮が36%と圧倒的に多いが、最近ではさまざまな国からの移住者が増えている。

沖縄では、基地の外に暮らす外国人の中で米国人が多いうえ、米軍人が相当数いるので外国人といえばアメリカー(米国人のことをそう呼ぶ)を指すことが多いようだ。

 

沖縄・・・米国24% 中国24% フィリピン21

     韓国、朝鮮7% その他25

 

全国・・・韓国、朝鮮36% 中国21% ブラジル15

     フィリピン9% その他19%  

 

 

沖縄史略年表                                                                                       資料2

西暦

元号

沖  縄  ( 琉 球 )

西暦

日 本 と 世 界

605

1187

1260

1349

1372

1392

1404

1429

1439

1458

1470

1492

1500

1532

1589

1609

1650

1713

1734

1853

1872

1879

1892

1904

1908

1909

1912

1919

1926

1932

1940

1945

1946

1951

1953

1958

1969

1970

1972

1975

1978

1982

1987

1992

1993

1995

1995

1996

1996

2000

 

推古13

文治3

文応元

正平4

文中元

元中9

応永11

永享元

11

長禄2

文明2

明応元

明応9

元文元

天正17

慶長14

慶安3

正徳3

享保19

嘉永6

明治5

 〃12

 〃25

 〃37

 〃41

 〃42

 〃45

大正8

 〃15

昭和7

 〃15

 〃20

21

 〃26

 〃28

 〃33

 〃44

 〃45

 〃47

 〃50

 〃53

 〃57

 〃62

平成4

5

7

7

8

8

12

 

『流求』はじめて中国史にあらわれる

舜天即位(伝)

英祖即位(伝)

察度即位(伝)

察度王はじめて明に入貢

留学生を明に送る

冊封使はじめて訪琉

尚巴志三山統一(第一尚氏王朝成立)

福建に琉球館を置く

護佐丸の乱、阿麻和利の乱

金丸即位して尚円と称す(第二尚氏王朝成立)

尚真、円覚寺を建立

オヤケ・アケハチの乱平定

『おもろさうし』第1巻編集成る

琉使上洛、秀吉に参礼

島津の琉球入り

向象賢(羽地朝秀)『中山世鑑』を著わす

『琉球国由来記』編集

蔡温「農務帳」を公布する

ペリー那覇に来航

琉球藩となる

琉球藩を廃し、沖縄県を置く(琉球処分)

宮古に人頭税廃止運動おこる

地割制廃止(土地の私有権確立)

沖縄県及び島嶼町村制実施

初の県議会議員選挙

初の衆議院議員選挙

宮古・八重山両郡、衆議院選挙区に加えられる

広津和郎「さまよえる琉球人」事件

沖縄県振興事業計画できる

沖縄方言問題論争おこる

米軍沖縄に上陸(41日)、623日沖縄戦終了

マッカーサー、日本と南西諸島の行政分離を宣言

サンフランシスコ条約で“沖縄・奄美”が米軍の施政権に

米軍「土地収用令」を公布、「島ぐるみ闘争」はじまる

通貨をB円からドルに切替

日米共同声明(沖縄返還)

コザ暴動おこる

日本復帰(515日)、復帰三法、沖縄振興開発計画策定

沖縄海洋博覧会開催(720日〜51118日)

交通方法変更(730日)

第2次沖縄振興開発計画策定

42回国民体育大会(海邦国体)開催

3次沖縄振興開発計画策定

44回全国植樹祭(425日)

「平和の礎」建設−太平洋戦争・沖縄戦終結50周年

沖縄県民総決起大会

普天間基地全面返還日米合意

民投票実施

九州・沖縄サミット所要国首脳会合開催(721日〜23日)

 

645

1192

1281

1338

1368

1392

1405

1429

1447

1453

1477

1492

1549

1590

1600

1616

1637

1716

1789

1853

1868

1871

1894

1904

1911

1914

1917

1919

1925

1932

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1991

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1997

2000

大化改新

鎌倉幕府創設

弘安の役

室町幕府創設

明建国