2006年10月1日吉野 朱実
すばらしいパフォーマンスをアクターとして体験した。観客、パフォーマー、場が一体となって、心が震えるような感動であった。その場にいたそれぞれの人達の顔にも同じ質の心の震えが見てとれた。眠っていた魂が揺り起こされ、この場に巻き起こっているエネルギーの雫の一粒ひとつぶをむさぼっているかのようであった。
私達は日常の暮らしの中で、このような魂と魂が共鳴しあうような瞬間を持つことがいかほどにあるのだろうか。日常の暮らしの中で交わす会話は、お互いの無事を確認し、近況報告するぐらいで、またそれぞれの暮らしに戻っていく。それでいい時もあるが何か引っかかってしまう時もある。「実は話したいことがあったんだけどな・・・」「あの人の話し方どこかぎくしゃくしているな。何があったのかな・・・」そんなひっかかりも日常の中に消えてしまう。
シュタイナーは著書「神秘学概論」の中で、「もし心を震わす感動なしに生きているとしたらそれは死んでいると同じこと。人間が他の創造物と区別できるのは魂の震え、感動を体験する能力があるからだ。神秘学の目的は生命力を強め、魂を輝かせることである。」と力説している。そして「唯物論的現代社会にあって、真に人間として生きたと言える『魂が震える瞬間』について、多様な側面から考察し、その意義や、その瞬間、感動を手にいれる方法を示唆している。
このシュタイナーの「神秘学」の視点と筆者が胸を打たれているプレイバックでの体験がつながってくる。
シュタイナーの理論を通して人間の存在について見つめ、プレイバックシアターの実践者としてより豊かに魂に響くパフォーマンスを作り上げていくためにその理論にはどのような可能性があるのかを考察してみたい。
第1章:キャラバン隊パフォーマンスの体験
1、パフォーマンスで何が起こったか。
昭和時代に栄えた商家(呉服問屋)をリメイクしてその佇まいを大切に残した「高砂屋」の一室でパフォーマンスは行われた。パフォーマンスをしたその部屋は、20畳ばかりの広さの床張りで、両サイドに半間窓があり押入と出入り口というシンプルなもの。床と壁、天井は同色のこげ茶で新しく塗り直されている。天井には1本木の大きな張りが渡っている。大きい方の窓側に30名ばかりの観客が、対面の窓側は舞台となりアクター5人がスツールの上に座り、ミュージシャンも控えている。
やわらかい素材でできたロングのギャザースカートとプリント柄のブラススを着てコンダクターは静かに椅子に座り観客を迎えている。
時間になった。ゆっくりと静かに立ち上がって、少し椅子から離れた位置でコンダクターは観客に語りかける。
「この部屋にいると、この大きな柱や張りは一体どのような人間模様を見てきたのだろうか、きっとたくさんの人たちがこの部屋を出入りし、いろんな出来事がこの部屋の中で展開されたのだろうな・・・そのような想像が駆け巡ります・・・」
観客もパフォーマーも、このコンダクターの低く静かにゆったりと語られる声に耳を傾けていた。この語りが、その後のストーリーの展開に大きく影響をしたことは言うまでもない。
コンダクターが「場」についてこのように語ることによって、「場」は「物」という存在から、あたかも命を宿っているかのような存在に変わった。特に日本人にとって「すべての物には命が宿っている」と古来から神道の世界で信仰されていた感覚は、一般的な言い方を借りると「血の中に」残っている。この語りかけは無理なく素直に、この「場」にいた人達の皮膚に浸み込んでいった。
建物が体験してきた「人間と共に歩いた歴史」に包まれて、観客の意識も各自の歴史の中に入っていった。一人の観客が手を上げ言った。
*「かわいがっているネコが腎臓病を患っている。精一杯看病してあげたい。」
この発話に続いて次の人が気持ちを語った。
*「一緒にこの場に来たがっていた息子が病気で留守番をしている。一緒に来たかったな。」
そして次の人
*「妹が赤ちゃんを連れて里帰りしている。母親が赤ちゃんにばかり気を取られている。寂しい。私のことも見てと言いたい。」
動く彫刻で演じた。
4本のストーリーは、
*「大好きだったおじいちゃんとの思い出」
幼稚園時代。おじいちゃんの自転車の荷台に乗っていると電信柱が後ろに動いていく。不思議だった。しがみついていたおじいちゃんの背は温かくやさしかった。
*「発達障害の息子との戦いの日々」
やさしいおじいちゃんの愛に包まれて育った。でも今は発達障害を持った子どもとの闘いの日々。夫はDV加害者で子育て放棄。おじいちゃんに見守られながら息子との日々を紡いでいきたい。
*「発達障害のある息子を持っている。父親の苦悩。」
芯のある優しい妻と、息子を一生懸命育てている。自分の中のいろんな葛藤と闘う日々でもある。
*「就労している老人施設でおじいちゃんからからかわれた。」
「たばこせんか」と声をかけられた。他の地域から来たのでこの方言の意味がわからず後でからかわれたことがわかった。このおじいちゃんはデーケアで来ていて、よく家で取れた果物などを差し入れしてくれる心配りのある人で憎めなかった。
3.参加者からの感想
『なんとなく頭の中では想像していたのですが、そんなものは体感した瞬間に吹っ飛んでしまいました。想像以上に感動と自分の中に沸き起こる不思議な感情で、帰り道、今まで観ることのなかった自分の心を初めて観たような不思議な感覚でした。もっともっと奥が深く、自分探し、惹いては自分を取り巻く人達への思いが肯定的に捉えられるようになっていく自分を感じました。こんなことは初めての経験です。それ程強烈に入り込んできました。』
『司会の方がさりげなく引き出してくださるので自然に話せました。なんだか恥ずかしい気もしますが、周りの人が自分の味方なんだと思えて嬉しかったです。なんだか自分の不幸を売り物にするみたいな感じになったらいやだなと、それだけが気がかりでしたが、司会の方がさりげなく手を差し伸べてくださったことが慰めになりました、わたしは一人じゃないんだと思えて、また少し勇気がわいてきました。わたしは大丈夫です。』
『その人の気持ちをアクターの方達がとても上手に表現されて驚きました。とても感動しました。』
『たくさん涙が出て、すっきりした。すごく素敵な役者さん達で、自然体で大事なことを見抜くことができるのはすごいなと思った。』
『ふと思い出したおじいちゃんのこと。いろんなことがあって、辛いこともあって、でもおじいちゃんに守られている。がんばりたいと思います。初めての感動でした。』
魂が揺さぶられるとき、新しい認識の扉が目の前に開かれていくかのような感動を覚える。アドレナリンが身体全体に循環していく。身体が熱くなり、胸がドキドキし、手に汗を握り涙する。血が沸き立つのを感じる。生きていて良かったと思える瞬間である。体と感覚、感情が一体になり、深いところで響きあい「生きる力」と満たした瞬間である。
このような体験についてシュタイナーは神秘学概論のなかで説明している。
物体(肉体)、エーテル体(感覚)、アストラル体(感情)、霊体(自我)の4つの要素が絡みあって人間は生きている。
肉体を生体として存在させるエーテル体(体内を流れる循環器系、呼吸器系などの働き、それによって起こる感覚機能など)がある。感覚(五感など)があるのは、このエーテル体の所作。しかしそれだけでは、植物と同レベルの存在である。植物も養分を吸収し、酸素を吐き出しと、循環の中で存在している。
生体に、快、不快、苦しみ、悲しみ、喜びなどの感情を体験させてくれるものがアストラス体の働きである。アストラル体は、外界からの刺激に対して反応し生体になんらかの感情、意識をもたらす。アストラル体に起こった感情、意識を捉えてエーテル体が反応し、喜びや悲しみなどの感情が肉体を使って現われる。しかしこれだけでは他の動物と同じレベルの存在であり、アストラル体だけでは意識は忘れさられていき「生命力」には繋がらない。人間の本性にはもう一つの要素『自我』というものがあり、
「アストラル体の働きによって起こった外的刺激に対する反応に際して、新たに何かを内的に体験し」神秘学概論 P64
その内的体験を生きる活力に変えていくもの「霊体:自我」の存在を通して人間は他の創造物とは違う「人間」として生きるのである。この4つの人間の本性はチェーンのように繋がっており、全体で一つの『生命体』として働いている。
シュタイナーの言う『自我』は、心理学でいう『エゴ』の『自我』とは違っている。
「現在という瞬間に働き、未来を志向する霊的な働きを受け止めるのが『自我』。「記憶を想起する」とう意識的な認識行為の上に立って、思考を通して、現在を意識し、未来への道に繋げていく働きをする。」解説:自我への秘儀P306
(シュタイナーの「思考」の概念については後述する。)
プレイバックシアターのパフォーマンスの場でストーリーを語るという行為は「日常の中ではアストラル体の働きによって意識する(感じる)だけで忘れてしまっている体験を「想起する」という自我の行為によって、洞察の対象としての体験に変えていく。このような追体験によってストーリーの中の出来事は再検討され、人生の糧として、より深い人生の理解をもたらす。
プレイバックシアターの中でドラマとして再現されたストーリーは、視覚を通してさらに追体験され、その感動は身体にまで及び、身体の中に力がみなぎってくるような感覚、シュタイナーの言葉で言えば「エーテル体が力を得、生命としての力があふれる。」ということに繋がっていく。
2、トランスについて
観客は高砂屋という日常とは違う世界の中で、コンダクターの「はじめの語りかけの言葉」で、容易にイメージの世界へと誘われていった。ここで観客の心の中に響いたエッセンスは「命」。それに引きずられて「命」から想起されたストーリーが次々と出てきた。過去(内的世界)と現在(外的世界)をつなぐ空間が作り上げられた。この空間の中でパフォーマー達は心を込めて演じた。
人間が生きている実感を持つためには、アストラル体と自我のコラボレーションの中で、生命体であるエーテル体が生き生きと活動を始めることが必要である。しかし日常生活の中ではアストラル体、自我は意識の背後に潜んでいて表面にでてくることがない。この2つの要素が活発に活動をするのは睡眠時・夢の中においてである。
日常の中(覚醒時)で、睡眠時と同様のアストラル体と自我のコラボレーションが起きることが「トランス状態になる」ということだと筆者は考える。
魂の体験が呼び起こされ、自己覚醒の状態が作り出される。魂の体験内容が限りなく豊かになる。活力と生きる手応えが、その人の意志の中へ霊界から流れ込んでいく状態。
神秘学概論P313
前述のパフォーマンスは、緊張感と真摯さにあふれていた。やわらかい素材の衣装に包まれてコンダクターは、やさしく、静かで穏やかではあるが、毅然としていた。尊厳を持って一つのパフォーマンスから次のパフォーマンスへと導いていく。そのリズムは、沈黙も含めて密度の濃い時間の中でなめらか。パフォーマーと観客は、日常を離れた深い自己覚醒の中に身を置いていた。
(トランス状態に導くための重要な要素だったと考えられる箇所にアンダーラインを引いた。)
3、『個』であるということ
シュタイナーは『個』=(履歴書を必要としない存在)の重要性を言っている。
「人間の内なる神は、魂が自らを『私』と認識するとき語りはじめる。」神秘学概論P71
「アストラル体を通して外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中に神的なものを通して自分自身についての内的な意識を獲得する。」神秘学概論P72
前述のパフォーマンスで、始まり時、コンダクターは自分の言葉で、自分の心を通って出てきた場への思いを静かに淡々と語った。コンダクターの内面に沸き起こってきた感情を1個人として率直に表現したとき、そこから伝わってくる情動が場にいる人たちに伝わっていく魔力となった。
コンダクターが意識していたか否かにかかわらず、この時コンダクターは静かに気持ちを集中し、雑念を払い、パフォーマンスの始まりに備えていたはずである。このコンダクターのスタンバイの過程で、一人の『個』として「その場に存在している自分を見つめられた」からこそ出てきた魔法の言葉だったと筆者は確信している。
シュタイナーはギリシャ神話に深い洞察をし「神がバラバラに引き裂かれて苦悩する」物語に人間の根源的姿を見出し、人間が『個』であることの必然性を説いた。
そもそもこの世のどんなものにも存在する目的がある。・・・「人間がここに存在している。だから人間には存在する目的があるはずだし、その目的に従って人間を創った技術者がいるはずだ。」この技術者のことを古来、神といいます。その神の思いが、人間一人ひとりという形となって顕れています。そして神のその根源的な思い、こういう人間を創ろうとした思い、その思いが今、わたしたち一人一人の中で自我となって意識の中に蘇っているのです。
解説:自我の秘儀P295
このような『個』の概念を踏まえていると、おのずから「批判しない、評価しない、分析しない」態度が生まれてくることに納得がいく。一人ひとり全く同じ人間はいない。少しづつ違っており、存在の目的(役割)も違うのであれば他者の感情、意識に敬意を払うしかない。と同時に、この世に一人しかいない自分に対しても敬意を払い、自分の中に起こってくる感情、意識に魂をゆだねる。個としての魂に素直に寄り添って存在することが正当化される。そして「みんな輝いている。」「みんなが大切」の感覚が生まれる。
アクターに存在感がないのは、自分の態度がもたらす影響について分かっていないだけでなく、舞台上で自分の存在を自信を持って表現するのが照れくさいのだと私は思います。
プレイバック・シアター癒しの劇場 P107
プレイバックシアターのアクター達が、自分の存在をこの世に一つの「かけがえのないもの」として抱きしめられているとき、存在感は自ずと出てくるはずである。
たとえば、木々の紅葉を見ると、とてもきれいで気持ちがなごみます。・・・・この葉には、ここに存在しようとする意志を持って存在しているとも言えます。・・・自分の中に存在の意志がなければ、外の世界が存在しようとしていることが理解できないはずです。この葉がそこに存在しようとして存在していることが実感できたとき、この葉を存在させたいという意志も、それと結びついて出てきます。・・・この葉がどういう意味でここに存在しようとしているかを知ろうとするのは、認識の働きなので、それは真に向かう働きで、シュタイナーはこれを思考と呼んだのです。
もしも私たちが、この葉を自分のために役立たせようか、と考えると、思考は状況に適応する思考になります。けれども、自分の中に生命を形成する思考があって、その思考が、この葉もそのように存在する意志を持っている、と思えたとすれば、それは同質の働きを通してこの葉が真実であると実感できたのです。真実であると実感できたとき、この葉も存在したがっていると感じますので、私たちはその葉を存在させたいという気持ちに結びつきます。
解説:シュタイナーの美学P349
上記の葉の存在についての記述は、プレイバックシアターのアクター達が、テラーの話にどのように耳を傾け、どのように演じたらよいのかを適切に示唆していると筆者は考える。テラーのストーリーを「語られたように、その存在したがっている大切なストーリー」として聞き、パフォーマー達は、同じく「ありのままで存在したがっている自らの魂による思考」を通してテラーのストーリーを理解した時、それは真実の存在として表現できるはずである。
4、美学とは何か
「外の世界と内の世界が乖離した状況の中で両者の関係を改めて問い直すために美学が誕生した」解説:シュタイナーの美学P341
「神秘学では現実が2つあって、一つは日常に我々が体験している現実、もう一つは眼に見えないより高次の世界(深層心理の世界)です。そしてこの2つの世界を結びつけるところに美があるのです。」解説:シュタイナーの美学 P353
あるパフォーマンスで「原爆にあって立ったまま死んでいた4歳の男の子の姿を見たとき初めて我に返った。」というテラーに「天国にいるこの子のお母さんは、どうやってこの子を迎えるでしょうか?」とコンダクターは尋ねた。「お母さんはしっかりとこの子を胸に抱くと思う。この子はきっと幸せを感じていると思う。」とテラーは答えた。
現実と内的深層の中でわだかまっていた、割り切れなかった気持ちがこの仮象の世界の中で調和し、手を取り合った。シュタイナーの言う『美』とはこのような調和の世界を言っていると筆者は理解した。
シュタイナーが愛したワーグナーは、美について以下のように言っている。
「およそ美を体験しようと思ったら、その美をなんらかの意味で普遍的なものと考えて、そこに自分が関わっていく、という態度をとったら間違いだ。自分という存在がまずあって、その自分の中に美が流れ込み、自分だけの美の形がそこに作られたとき初めて、美が体験できる。
・・・あるメロディーが浮かんできたときに、ただ浮かんだというだけではまだ美ではなく、浮かんだメロディーが自分にとってどのくらい重要なのか、切実なのか、どのくらい深い印象を与えてくれたのか、というところでそのメロディーが美になる。
・・・ある体験が自分の中で強烈な体験になりうるためには、精神ではなくて「生命」の中にどれくらい強く働いているかにかかっている。・・・形象化された思考内容も、それだけではまだ美ではなく、それが自分の中で生命の流れとなって体験されたとき初めて美になる。
解説:シュタイナーの美学 P366〜367
なにげない言葉やメタファーを通して、想像力や直感、創造性そして美への認識を呼び起こすことを通して、芸術による治療はもたらされます。プレイバック・シアター癒しの劇場P134
なにげないが、しかし非常に魂を揺さぶられる言葉、メタファー、想像力や直感、創造性などは、すべてアストラル体と自我のコラボレーションによってもたらされるものである。プレイバックシアター実践者達の「生命」の質と鮮度によって生み出される。
5、思考について
意味のある感情とは、積極的な思考がなされたとき、その思考と結びついて体験される感情。ここでの思考とは、環境によりよく適応するための思考力ではなく、形成する生命力、内から形態を創造する力のことである。・・・だから自分の中に生命の形成力が自覚できますと、今の状況に満足できなくなって、状況に適応するよりも、状況を変えようとする要求が出てきます。自分の内面世界を思索によって変えたいという衝動、外の世界を思考力を行使して変えたいという衝動が出てきたときに、初めて真と善とが問題になる。
解説:シュタイナーの美学P346〜347
プレイバックシアターの中で起こってくる思考はまさにシュタイナーの言っている思考である。プレイバックシアター実践者達が、社会の中に起こっている不条理に眼を向け、それに対して働きかけをせずにはいられなくなる衝動が生まれている。個々のプレイバックシアター実践者達は、穏やかな革命家である。
第3章:プレイバックシアター実践者としての道
今後プレイバックシアター実践者として成熟するためとして考えられる方法をいくつか挙げてみる。
1、『個』としての自分の存在をいとおしむ。
いわゆる自己受容ということ。
「いかなる感情も意識も、存在の必然として出てきたもの。」という認識に立ったときに、所謂シュタイナーの言う「高次の認識」へと自我をいざなうことが出来る。
実践者自らの『個』を慈しみ、抱きしめることが出来たとき、自己の「存在」、他者の「存在」が重みを増す。そしてテラーの話を心から尊厳を持って受け止めることが出来る。
2、自己の解放
現実の世界と内的世界の空間地点、仮象の世界で自由になれるセンスを手に入れる。
トランス状態を楽しむセンス。
ジョナサン・フォックスは、彼の著書の中に
Fear of being unoriginal
Fear of being crazy
Fear of being obscene
を挙げ、これを解決するためにreleasing taboo, turn quite childish, scatological をあげている。
ウオーミングアップのとき、おもいきり「ばかな遊び」をして自己解放をするのは、仮象の世界への参入を容易にする。
仮象の世界で自由度が高まれば、高まるほど、芸術性の質は高まる。
3、思考力を身につける
内的に積極的に働く思考力を高める。
この方法は1に繋がるが、自らの本拠地、存在をOKするセンスを得るために、
上手く生きるための思考ではなく、自らの内面に問ったとき納得のいく考え方を模索する。困難から新たなエネルギーを得ることの出来る方法を模索するために思考を働かす。
4、自己の内面の観察法として
日常的に芸術分野に親しむことは非常に役に立つと考えられる。
例えば、
*「道」と名づけられている、茶道、武道、華道、などは内的な力をつけるのに非常に力強い哲学を持っている。
*音楽、踊りなどは、自己解放し、より豊かな表現力を模索する力強いツールである。
*ヨガを通じて、身体と心の関係を実感し、自我を強めていく。
おわりに
キャラバン隊が行ったパフォーマンスでの体験を通して、シュタイナーの「神智学」とプレイバックシアターを見つめていった。多岐にわたるシュタイナー理論の中で特に筆者の感覚にひっかかってきたものを取り上げ、プレイバックシアターの中で起こってくる現象とを比較・考察していったつもりである。
筆者が考察のために取り上げた箇所の限りにおいては、シュタイナー理論とプレイバックシアター理論がぴったりと重なっていることに感動している。
(もっと研究していくと違いもあるのかもしれない。現段階の筆者にはわからない。)
プレイバックシアター実践の中で、自らの生命の力が賦活していくことを実感する。シュタイナー理論を通して、そのことの意味を立証できた。
オイリュトミストは、オイリュトミーを通じて、プレイバックシアター実践者は、プレイバックシアター実践を通じて、内面を深く見つめ、それを糧にして成熟した人間としての在り方を探る。現実認識を新たにし、愛と調和に満ちたシャンバラへの道(神智学でいう『理想郷』を歩んでいく。
筆者にひらめいた内的感性を高めるためのウオーミングアップのコマのいくつかを記しておく。
プレイバックのワークショップ時、あるいは練習時にいつか試してみたいと考えているものである。
眼を閉じヨガをする。一通りのヨガのポーズを習得した後、 *
好きな花をイメージし、その花の種子から開花、枯れていくまでを眼を閉じてポーズしてみる。 *
ファシリテーターが詩を読む。詩のイメージに合わせて、それぞれがポーズを取る。
参考文献
Gathering Voices :Edited by Jonathan fox、Tusitala Publishing
Act of Service :Jonathan Fox、Tusitala Publishing
プレイバック・シアター「癒しの劇場」:ジョー・サラ著 社会産業教育研究所
プレイバックシアター入門:宗像佳代著 明石書店
神秘学概論、ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳、ちくま学芸文庫
シュタイナー・コレクション:
芸術の贈り物、神々との出会い、歴史を生きる、照応する宇宙
ルドルフ・シュタイナー著、高橋巌訳 筑摩書房
オイリュトミーの世界:高橋弘子編 水声社
オイリュトミー:日本人智学協会編・訳 泰流社
シュタイナー教育とオイリュトミー 秦理絵子著 学陽書房
オイリュトミー体験者の言葉
http://homepage3.nifty.com/tanuki/Eurythmie01.html
http://home.att.ne.jp/moon/kreuz/eurythmie/kiyoe2.htm